踏切(企画ページ) *テーマ:『短い恋愛』    只今6名参加中                                           


 ●●●  無題
きみのことが、ずっと好きでした。


夢の終わりはとても恐ろしく、とても美しく。

それこそが夢のようで。

音を綴ることは赦されない恋だったけれど。


きみが遠くなるほど、想い出は鮮明になる。

それこそが真実のようで。

こころは純度を増し、よりいっそう美しく醜くなっていくけれど。


どうして胸は痛むのだろうか。

もう夢のなかですら泣けないのに。



きみのことが、本当に好きでした。


だから。

ありがとう。さようなら。


夢が褪めて、ようやく自由になれる。

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6番手*はとり深空
大都市の片隅の同人屋
お城-『異世界旅行』へ。

2010/01/01 (Fri) 0:00


 ●●●  不自由なままで
朝に目を覚まし、夜になれば深く眠る。喉が渇けば潤し、腹が減れば満たす。どうあがいても勝てないものが、生理現象というものである。生理というのは読んで字の如く「生きる理(ことわり)」であり、死が訪れるまで、どんな人間であろうと支配され続けなければならない。
 いつも思うことがある。それは、「自分の気持ちは自分でも奪えない」ということだ。女だから感情的だという通説を、科学的に否定し続けている私にとって、言葉に換えたこの思いは、何よりも大事なものの一つにしている。
 人間は自分を不自由にさせる世の中を創ってきた。社会的な場では、それはより一層顕著になる。誰にも通過する出来事で、それを実感することになる。
 俗に、恋と言われるものは、全くといっていいほど、自分を不自由にさせる。心ばかりではなく、体、時間、人間関係、将来、自分を取り巻く環境にさえ影響させる。
 多分、頭の中に恋の正体がある。だが、感じる部分は体だ。
 好きな人ができれば、朝目覚めても胸が少し苦しい。ため息を吐いては、思い描くものは恋する人のことばかり。
 「今、あの人は何をしているのだろう」
 自分の意志が届かないところで、好きな人が活動しているのがたまらなく苦しいのだ。傍にいたい、というそれ以外に表現できない気持ちに苛まれる。
 その人の近くに寄り、立ち姿を見、声を聞き、匂いを感じ、ふざけあっては触れ合う。まるで、自分の五感が覚醒したかのように敏感になる。
 しかし、ずっと傍にいれるはずがない。それは本人が痛いほど分かっていること。離れていくにつれて、また胸が苦しくなりだす。ごはんは喉を通らなくなり、夜にふと目を覚ます。
 この気持ちは辛いというほどのものになる。何せ自分の体が自分の思いどおりに動いてくれないからだ。
 正しい答えはないのに、あたかもそれがあるように自分を振舞う。嫌だと思う自分をも表に出してしまう。
 心だけじゃなく、身体も、その二つを伴った行動や言動ですら、自分がどうにかして奪えない。

 人はいつもそうやって、不自由を求め続けているに違いない。いつまで経っても、人間の変わることのない営みなのだろうか。
 好きになることが、自分を不自由にさせるほど辛いことなのだけれど、そのドキドキと浮かれるほどの気持ちを遂げたいと思う。それほど情熱を持ちたいというのが、人の性なのだ。
 恋とは不自由なものだ。
 自分の望むことに拘わらず、大きく細やかに心は動く。
 体は言うことを聞かなくなる。
 はけ口などすでにして無くなり、淫らな感情を押し留める。
 抜け出したい状況。
 抜け出せない状況。

 不自由であるが故に、恋とは楽しく、亦、辛い。対局に在る感情が、同じ価値をもつほど難しいことはない。

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引き続き:南風(昔の名前)
お城-見つかりましたか?

2010/01/01 (Fri) 0:00

 ●●●  恋の話-1
それは、少し寒さが和らいだ、たいそう心地のいい日であった。そんな日には、決まって嫌なことが起きる。
 かつて悪い人生を送ってきた具合からすれば、べつだん不思議ではないのだけれど、そんな心地よい日が私には重なるらしく、挙げれば、友人の訃報、恋人との離別問題の浮上、ミナミの路上でボッコボコにされる、競馬で大負け、と挙げればキリがなくなるのでやめる。
 要するに、験が悪い、というワケだ。
 そもそも、この「踏み切り」に参画した理由というのが、このサイトの管理人である夏野からの依頼があったからだ。大学から、多少因縁めいた長い付き合いである。
 そう、その日も心地の良い日の昼下がりから宵にかけであった。
 「あのさー、あたしんとこのホームページで新しい企画考えてんだけど、一枚噛んでみ」とのことであった。
 どんな企画か、と訊いたところ「知り合いの文章を載せる」と返ってきた。
 実は私、四年前くらいから知り合いのサイトを間借りしてエッセイなんぞを書いている。夏野はそのことを大いに了見した上で私に、書いてみないか、という企画を遣して(よこして)きたのである。
 私が書くエッセイというのは、それはもう実に乱暴である。正確無比な言葉を用いると、無思慮、無分別、無節操であり、不義、不貞、不遜、であり、非道、非礼、非常識と九拍子揃った、まことに嘆かわしいものである。その証拠に、だあれも誉めてくれない。
 その事実を知ってか知らずか、夏野からの執筆依頼である。夏野がやり手なのか、私がハメられたのか、はたまたその両方だと思うが、こうして依頼を受けてのうのうと書いている。
 テーマは、こともあろうに「恋愛」という。
 (私から一番遠いテーマではないか)、と思った。やはり嵌められたのであろうか。

 話は変わるが、私はかれこれ2年間は恋人というものがいない。まあ、モテないというのがおおよそではあるが、恋愛事情というものが元来苦手な生き物である。それ故、下手糞であり、恐怖症の感がある。そもそも最期の恋人を機会に、足を洗ったという構えである。全てを話すと時間がかかるのであれだが、やらかしてしまった、というべきであろう。まさか指を飛ばすワケにはいかないので、あえて足を洗うという言葉にしたのである。
 大した恋愛ではないが、しかし結果的には女を欺いた決着をみてしまい、改めて修行不足であると認識したのであった。
 修行するものの常として、最低限の持ち物、無欲な生活、時間を費やす忍耐、というのが鉄則である。まるで競馬場での鉄則であるが、修行僧とはその三つを戒律にすればよいのである。しかし困ったことに、僧侶だって人間なので欲はある。だから彼らは「欲を抑える術」という法力を心得ておる。無欲というより、禁欲というべきであろう。
 当然のことながら、持ち物を減らすには分別しなければならないし、無欲な生活といっても捨て去れるのは物欲と性欲、何よりこんなことに時間を費やすのが面倒だという悟りを開いた。かくて辿り着いた言葉が「恋人なんぞいらねえ」であった。

 別にお世辞を言うワケではないが、ここの管理人はたいそう聡明で、頭の回転が速い。今まで出会った人の中でも、目を見張る能力である。従って、分かりきった上で、こんな私に執筆を依頼したということになる。
 恋愛恐怖症だろうが性欲不振だろうが、ここは一つ、恋にまつわる話を書いてみよう。

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5番手:若(仇名)
『まあアホアホエッセイに成り下がるワケだが。』とのこと。期待しましょう。
お城-探してみましょう。

2010/01/01 (Fri) 0:00

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