+美篶堂日記+スタッフ+


新たに年も明けたことですし、永らく冷温停止だったブログを久しぶりに…。(汗)
 さて、今日は成人の日。自分が二十歳になった年の事をちょっと書いてみようと思います。

 私が生まれた年は昭和40年…つまり西暦1965年ですから、二十歳になった年は1985年になります。で、その年に何があったかといえば、すぐに思い出す出来事に500人以上の方々が亡くなった、あの日航ジャンボ機墜落事故があります。

 当時、私はまだ東京の某デザイン専門学校生でしたが、そんなもの(…汗)そっちのけでのめり込んでいたオートバイレースの資金稼ぎのため、渋谷の山手通り沿いにあったガソリンスタンドで、日夜アルバイトをしていました。
 墜落事故が起きたのは8月12日ですからお盆に入る直前で、長野県に帰省しようかどうか迷っていたところに飛び込んできた重大ニュースだったわけで、もちろん、務め先の社員やバイト仲間らでもけっこうな騒ぎになりました。
 とりわけ今でもハッキリ覚えているエピソードは、歌手の坂本九さんがたまたま乗っていたらしいという情報が入ってきたときのことでした。

 実際、坂本九さんはその日航機事故でお亡くなりになっているのですが、そのときはまだ情報がハッキリしていなかった頃だったと思います。スタンド裏の休憩室で休んでいるところに、同じ専門学校に通うバイト仲間が「おう、カミジマ。あのジャンボ機、坂本九が乗ってたんだってよ!」とちょっと興奮した様子で入ってきたのでした。
 
 私はというと500名以上が絶望的ということに十分ショックを受けていたので、「まぁ有名人の一人や二人、乗っていても不思議はないよなぁ…。」という、なんというか冷静なようで呆然とした気分で反応したように思いますが、その後彼が放った一言がちょっと気になったのです。

 「まぁ、坂本九もついてねぇよな〜!」と…。

 縁もゆかりもないブラウン管(!)内の有名人ですから呼び捨てなのはまぁよいとして、言い方がちょっと軽々しかったのと「いや、ついてないのはジャンボ機に乗っていた全員だろうに…」という気持ちから、ちょっとムッとしてしまいました。
 まぁ今にして思えば、彼が言いたかったのは「大勢いる有名人の中では、坂本九さんがついていなかった」という意味だったのかもしれませんが、当時は坂本九さんを特別視することで、その他大勢の乗客の存在を軽んじているように感じ、ちょっと不謹慎な物言いに思えてしまったのです。

 まぁ話はそれだけで、その後彼との仲が悪くなったわけでもなく、大したオチも無いので申し訳ないのですが、何が言いたいかといえば、もう四半世紀以上も前の出来事でも、しっかり記憶に刻まれていればかなりハッキリ覚えているものだ、ということですね。

 ただ、今回改めて1985年に何があっただろうとネット検索してみたところ、たとえば《豊田商事事件》とか《電電公社がNTTへ》とか《ロス疑惑の三浦和義氏逮捕》とか《夏目雅子さん27歳で白血病死》とか《おにゃんこクラブが大ブーム》とか、他にも印象に残る出来事はたくさん見つかるのですが、ほとんどが「あぁそうか、これって自分が二十歳のときの出来事だったんだな、へぇ…」と思うことばかりで、日航ジャンボ機事故のように「あれはそう、自分がちょうど二十歳になった年の出来事で…」という感じで明確に自分の中に刻まれているのとは、ちょっと違うんですよねぇ…。

 で、その差を分ける要素は一体何なのかなぁ…なんて、ボンヤリ考えてみたりもします。

shin-1_K



2012/01/09 (Mon) 21:32



本日、二度目の…
 さて、今朝のNHKニュースの特集コーナーは、なかなか興味深いものでした。
 
 現在、福島では原発の収束に向けた作業が、日夜懸命に行なわれていることは周知のことと思いますが、そこには東京電力だけでなく、様々な下請け・孫請けの会社の作業員も多く関わっているようです。そんな中、下請けの下請けの…更なる下請けの、とある会社の実情が詳しくレポートされ、100%原発に依存してきたその会社の経営者の苦悩が語られていました。

 その社長はしっかり先を見据え「今後は原発も廃れて行かざるを得ないし、原発関連の仕事は少なくなる一方だろうから、業務内容を原発以外にシフトして行くべきだ」という現実的で妥当な考えに基づき、色々と模索している状況のようでした。
 しかし一方、彼の下で働く従業員の中には、あくまで原発にこだわり「今こそ原発の仕事に全力を傾けるべきだ」という考えの者や「今までずっと頼りにしてきたくせに、事故が起きた途端、原発は怖いし嫌だからもう要らない、という都会の人はおかしい。自分はこれからも原発の仕事をして行きたい」という更なる下請けの人もいて、各自インタビューで紹介されていました。

 もちろん、それぞれの立場でいろんな思いがあるのは当然ですが、より下にいる立場の人達の方が、むしろ純粋に『原発を愛している』かのような印象を受けたのは少々意外でした。もし、このまま社長が原発を「見捨てる」つもりならば、自分はこの会社には留まれないだろうというその従業員は、まるで“ひたむきな信者”のようにも、私には見えました。しかし、よくよく考えてみれば、それは当然と言えば当然なのかもしれません。

 というのも、下で働く者(技術系の場合は特にかもしれませんが…)にとっては、それまで自分が長年培ってきた技術や作業そのものを心の拠り所にするからであり、結果、容易には路線や手法の変更をしたがらない傾向にあると考えられるからです。この事例の場合、その従業員は現在の会社を辞めても、自分の経験が活かせる他の原発関連の会社に移れば良いということなのでしょう。

 で、番組を見て私がまず感じたのは、この社長の判断はむしろ適切で、この期に及んで原発にこだわり自分を変えようとしないひとりの従業員に対する少々の違和感でした。
 もちろん気持ちはわかります。今までずっと懸命に取り組んできた誇りもある仕事でしょうし、原発以外の仕事を模索するなんて、その全てを否定されるような気分になってしまうのかも知れません。私だって手製本という仕事に関するこだわりは、今更そうそう捨てられないし変えられるものでもない。だから、技術者としての彼らのこだわりに共感してあげたい…。

 しかし、それでも原発は事故を起こした時、やはり影響が大き過ぎます。それに、もしこれから新規に原発を造るとしたら、今度は格段に厳しくなるであろう安全基準をクリアしなければならず当然コストパフォーマンスは下がらざるを得ない…。そして、それ以前に建設地の選定すら今後はままならないであろうことも想像に難くありません。適うならば、彼らにもその辺りの想像力をよくよく働かした上で判断して欲しいと、正直思わざるをえませんでした。

 もちろん、社長の現実的で妥当な考えを支持する従業員もいるだろうし、むしろその方が多いのかもしれないですが、その辺は番組では確か明らかにしていなかったので不明です。あくまで“業務内容の大転換を決断する経営者と、それに反発する従業員”という構図にスポットをあてたレポートでしたから…。(NHKらしく「中立」にこだわり、判断は視聴者に任せる終わり方でした)

 でも、何にせよ、このように普段なかなか顕在化しない原子力関係の現場を垣間見ることは大切なことだし、意義のあるレポートだとは思いました。そして、この一変してしまった世界の有り方についても、粘り強く丹念に考えて行く必要があると感じています。

shin-1
2011/04/29 (Fri) 23:50


 おひさしぶりです。
 また、だいぶ間を置いてしまいました。(汗)

 「そろそろ更新しなきゃなぁ…」と思っていたところに今回の大震災が発生してしまい、大津波がもたらした惨状にはただただ呆然とするばかりでした。遅ればせながら、被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。

 そして、我が目を疑うような原発の事故には大きな衝撃を受け、心底肝を冷やしながら見守り、楽観論から悲観論までひたすら正確な情報を追い求めつつ、自分としてはなかなか考えが纏まらない日々が続き、結果、何か落ち着いて文章を書く気にもなれず、事ここに至っておりました。
 誠に情けない次第であります…。

 とにかく、ものの見方や価値観が一変する様をこれでもかと見せつけられた思いで、もちろんそれは現在も続いているわけですが、その間、実は美篶堂も色々ありました。
 それは弊社HP、そして私を含め関係者のツイッターなどでも告知しておりますが、2003年より営業して参りました東京の御茶ノ水ショップが、来月5月5日をもって閉店となることです。  

 思えばあの建物は、まだ江戸川区に弊社工場があった頃、私が仕事終わりに色々と物件を探して夜な夜な歩きまわった末ふと見つけたもので、建物の並びや間近に見える御茶ノ水の駅や地下鉄の線路などに何やら面白そうな雰囲気を感じたことを、昨日のことのように思い出すことができます。
 
 ですから、残念な想いはもちろんあるにはあるのですが、大変ありがたいことに、日頃からとてもお世話になっている『株式会社竹尾』様のご厚意により、神田錦町にある『見本帖本店2F』の一角をお借りして営業を継続することが可能になりましたので、これからがセカンドステージというつもりで、喜びと共に更なる努力を重ねて参る所存です。

 これからも何卒よろしくお願い申し上げます。

               
               渠篶堂 伊那工場 上島真一

2011/04/29 (Fri) 20:20


ネット時代の読書 その5(合理性って何でしょうね…)
 さて、前回は行き過ぎた遺伝子至上主義や極端な脳至上主義が「冷たい合理性」を生みだすという話をしました。…が、そうはいってもどれくらいが「行き過ぎ」なのかは、人それぞれの感覚・価値観に依ると言わざるを得ないでしょう。
 その上で、ともかく私なりの「冷たい合理性」を定義してみますと、それは一言でいえば「効率を最優先して、それ以外を無価値と決めつけること」といった感じでしょうか。いや、無価値と決めつけないまでも、大した問題ではないとか、とるに足らない事柄として議論から簡単に排除してしまうことも含まれますね…。

 無論!効率は大事です。私も工場長という立場で製本屋という製造業に身を置く人間ですから、作業はなるべく効率的にこなすことを第一に考えます。というか、会社存続のためには当然そうせざるを得ないのですが…。(汗)
 しかし、一方で最大限に効率的であろうとすることは、常にどこか張りつめていなくてはならないわけで、やはりそれなりに疲れます。少なくとも、私は仕事を離れてまで効率を追求した生活を送りたいとは思えないのです。

 たとえば「あなたの住む部屋は相場からして家賃○○万円相当であり、そのうち本棚が占める割合は△割なのだから[○○万円×△割]で□□万円になります。つまり、あなたは毎月本棚の場所代に□□万円を使っていることになるのです。さらにそれを一棚あたりに換算すれば…」なんていうのは、まあ正直まっぴらだということです。

 もちろん店舗の経営上やるのであればわかります…というか、必須でしょう。しかし、自分の部屋に好きなものを置くことにまで、家賃ベースで数円単位まで場所代換算する事に一体どれほどの意味があるのか。その脅迫的なまでの損得勘定に突き動かされる生き方は、果たして幸せなのだろうか?と、つい考えてしまう性分なのですよ、私は…。

 うむ、少々熱くなってしまいました。(汗)

 なぜこんな話をするかと言えば、電子書籍もそのメリットについて語られるとき、大抵「いかに時間的あるいは空間的に効率がよいか(つまり、お得であるか)」という合理性が幾つも挙げられるからです。当然それは紙の本と比較してのことになるのですが、これには多くの人が同意せざるを得ない。でも、そうなると、別に電子書籍を悪者にしたいわけではないのだけれど、つい反発してしまいたくなるわけです。「何もそういう効率を追求した利便性だけが、合理性ではなかろう」と…。

 合理性とは、つまり「理に適っていること」だと思いますが、そうであるならば…という想いで、以前私はこのブログにおいて「本が紙という植物由来の素材でできていることは、人との親和性も当然高いはずであり、そのことにも十分価値はあるはずだ」という内容の考察を述べたつもりです。
(2010/11/30「本が紙であることの意味とは…」)
 
 そして、今回『本は、これから』を読んでみて、執筆者の中にも何人か同様の想いを持っていらっしゃりそうな方がいてちょっと安心した次第です。その中でも一番近いと感じたのは池内了氏で、氏は科学者らしく次のように述べます。

「そもそも人間は有機物でできている。有機物とはカーボン(炭素)を主体とした化合物だから、人間はカーボンと相性がよい。紙もカーボンであり、本は紙に限るのである。その上、人間は…(後略)」

 他にも、素材に着目したわけではないものの、前回挙げた内田樹氏の「本の厚みが持つ意味」に言及した論考、あるいは本の重さやその物質性とそれに対応する人間の身体性について考察することで「効率以外でも理に適うことはある」という意味合いの見解を、幾つも見つけることができました。一方で、ネットでよく見かける「紙→電子」移行論に終始される方もおられますが、それもまた一つの否定しがたい可能性ですし、意見や予測は色々あってよいのだと思います。

 ちなみに私は漠然とですが、本と電子書籍の関係性を現在ある他のメディアの関係に例えるなら「映画館と映画専門チャンネル」のような棲み分けになるんじゃないか、という気がしています。
 ちょうど「本」にあたる古いメディアが「映画館」だとすると「電子書籍」にあたる新しいメディアは、テレビはテレビでも衛星放送やケーブルテレビの「映画専門チャンネル」くらいのスケールであり、かつて映画産業を滅ぼすかのように言われた「テレビそのもの」であるとは、どうしても思えない。むしろそれに相当するのは、影響力の大きさや伝播性の広さ、そして多種多様さにおいて「インターネット全体」なのではないか、という気がするのです。

 ところで、キンドルやアイパッドなどの電子書籍端末を体験した人の感想で「思ったより悪くなかった」とか「けっこう読みやすかった」という声は少なくありません。中には「もう、読書はこれだけでいいや」という人もいるわけで、それはそれで全然構わないのですが、もしかしたらそれって日頃は映画館でよく観る人が電気店や友人の家に行って、充実したホームシアターを体験したときに感じるものに近いんじゃないかと思うのです。そして、中には完全にホームシアター派に転向する人もいたりするでしょう。
 実際「家にはホームシアターばりの大画面テレビがあるし専門チャンネルとも契約しているから映画はよく観るけど、映画館には滅多に行かないなぁ」という人は、今の時代けっこう多いと思います。でも一方で「やはり映画は映画館で観てこそだよな!」という人も決して少なくないからこそ、映画産業もそれなりに存続しているのだと思います。

 もちろん、映画の場合「原則、新作は映画館のみで公開され、終了後にDVD/BDでの販売、専門チャンネル等での放送/配信」という時間差が徹底されています。そしてそれは間違いなく映画館の存在価値につながっており、本と電子書籍の関係性とは少々異なるでしょう。本と電子書籍の場合、その仕組みが今後充実してきたら、おそらく多くの書籍は紙と電子で同時発売になるだろうからです。
 
 しかし、代わりに…といってはナンですが、本には「(素材も含めた)モノとしての価値」やハードとソフトが一体化している特殊性があるわけで、やはりそう簡単に無くなるものではないだろうとは思っています。

 まあ、実際どうなるかなんてわかりませんが、いずれにせよ、今後も注目し続けていきますよ。

shin-1
2011/02/11 (Fri) 22:25


ネット時代の読書 その4(というか、けっこう脱線?)
 前回に引き続き、もう少し『本は、これから』という本について思うところを…。

 さて、本と電子書籍の関係については、人それぞれの考え方がありますが、中でも(特にネット上で)よく言われるのが「現在のIT業関連の興盛ぶりからすれば、いずれほとんどの本が電子化されることになるだろうし、そうすると紙の本は骨董品あるいは伝統工芸品的なものになるだろう。」という予測やそれを踏まえた議論でしょう。

 この著書でも編者の池澤夏樹氏を含めた37人の方々のほとんどが、同様の認識に立った上で持論を展開されているわけですが、内容の幅は広く「…でも、本当にそうなのかな?」とか「果たしてそれで良いのだろうか?」という疑念を強く持ち表明されている方から、割とあっさり「いいんじゃないの?それが時代の必然ならば。…というか、それも全然悪いことじゃないだろう」という本音が見え隠れする方まで、色々いらっしゃるように感じます。

 中でも五十音順でたまたまなのですが、フェミニズムで有名な社会学者で東京大学教授、上野千鶴子(うえの・ちづこ)氏と、そのすぐ後に続く最近引っ張り凧人気の神戸女学院教授・内田樹(うちだ・たつる)氏がおっしゃっていることが、ある意味すごく好対照でなかなか興味深いです。

 上野氏は、自らは紙の本を愛していると述べつつも「電子化の流れは止められないだろうし、止める気もない。自分は紙の本は好きだが、それにも増して言論の自由こそ大切だから、それが守られ促進されるのであれば別に電子媒体でも構わない」という論調で、こういったスタンスの方は作家・文筆家の方々にとても多いように思えます。やはり、自分は文章を書くことが生業だから表現できる媒体は原則何でもよい、という感覚なのでしょうね。(上野氏自身は、自分は学者であって物書きではない、とおっしゃっていますが…汗)

 一方、内田氏は、自身は大のガジェット好きであると前置きした上で、あくまで紙の本にこだわり、紙の本ならではの利点を強調した論陣を張ります。「人は読書するとき、(半ば無意識ながら)本の厚みとその減り具合から読み取っている(推測している)情報があり、それは意外に重要なことである」という論旨や「“運命的な書”との出会いは、やはり本に実体があってこそである」と説きます。(ついでに、内田氏は『街場のメディア論』においても「本棚の意義」についても独自の視点で語っており、本に対する愛着を示しています)

 もちろん、これはそもそも論説の視点・立脚点が違っているからで、どちらが正しくてどちらが間違っているというわけではないでしょう。たとえば内田氏であっても「言論の自由のためならば電子書籍もやむなし、というか必須だろ!」という想いは当然お持ちでしょうし、上野氏にしても、今回はあくまで客観性を重視した本の未来を語るべきと判断すればこその言説であって、もっと自己の心情に忠実な(独断と偏見に満ちた)意見でもよいというのであれば、かなり違った切り口の論旨を展開したかもしれません。

 ただ、私はやはり内田氏のように、独特の視点・観点から得た“生々しい”分析と考察を元に、もはや定説となりつつある「紙→電子」移行論に挑む論調の方が正直好きだし、おもしろいと感じましたね。

 本というのは、言うまでもなくその中に書かれている内容こそが最も重要であり、それなくして外装をどんなに飾ろうとも意味はないでしょう。いやまぁ、馬子にも衣装という諺もあるにはありますが…。(汗)それはさておき、だからといって本は中の文章データさえあればそれでよいという価値観・風潮には、自分が製本屋だから…というバイアスをできるだけ差し引いて考えたとしても、どこか抵抗感を持たざるを得ないところがあるように思います。

 それは、その極めて割り切ったものの考え方が「人間を含めた全ての生物は、遺伝子にとっては乗り物(乗り捨てられる器)に過ぎない。つまり、ありとあらゆる生物は遺伝子の生き残り戦略によって動かされているのである」という、いわゆる利己的な遺伝子(セルフィッシュ・ジーン)的な発想、あるいは「人間が人間たる所以は思考することにあり、それは脳に生じる。ゆえに人間は最低限、脳さえ生きていればよく、将来的には脳以外を機械に置き換えても何の問題も無い」という“誤った唯脳思想”に通じるものを、どことなく感じてしまうからです。…いや、SF的にはおもしろいし、そういった「サイバー物」は昔から大好物なのですがね。(汗)

(ちなみに『バカの壁』がベストセラーになった養老孟司氏が、現役の東大教授時代に著した『唯脳論』は、よく誤解されがちですが全くの別物です。あれは「脳とはなにか?」ということを解剖学的に分析・考察することで、脳も身体の一部でしかありえないこと、決して脳〈思考〉だけが独立して存在しえないことを示し、しかしそれを意識できるのもまた脳以外には無いという意味での“唯脳”なのである…という、いわば「脳の立場から見た禅問答」のようなもので、優れた一種の哲学書だと私は捉えています。)

 もちろん「利己的な遺伝子」という革命的な考え方自体は学問としてとても優れていて今や定説と言ってよく、ことさら否定する気もありません。また、思考する主体である「脳という臓器」が人間にとって極めて重要な器官であるという認識にも疑いの余地はないと思いますし、だからこそ「脳死(判定)」という独特な死の形態が存在するのでしょう。
 ただ、一方でこういった考え方は、前述の行き過ぎた「遺伝子至上主義」や「脳至上主義」を生み出すことにもなりかねない一面もあり、本も中身の文章データさえあればよく、あとは無駄で邪魔なだけだという割り切り方とどこか共通した「冷たい合理性」みたいなものを、私は感じてしまうのです。

 まぁ、たかだか本と電子書籍の関係を当てはめるには、話を大きくし過ぎという気もしないではないですけどね…。(汗)

shin-1
2011/01/30 (Sun) 21:30


 ネット時代の読書 その3
 ネット時代の読書 その3
 年末年始を挟んで、ちょっと間が空いてしまいましたが、本年もよろしくお願い申し上げます。

 さて、前々回からの続きとしては「読書中毒とネット中毒の違い」について書いて行く流れになっていたわけですが、最近ちょっと興味深い本を読んだので、それについて少し触れてみようと思います。それに後々繋がってきそうな内容でもありますし…。

 で、その著書というのは、岩波書店から昨年の終盤に出版された「本はこれから」という題名の新書で、内容も内容なので大小様々な本屋さんで見かけることが多いように思います。この本の編者は池澤夏樹氏で、氏を含め37名に及ぶ識者/著名人の方々がそれぞれの視点から本についてのこだわりなどを語っています。さすがにそれぞれの分野で活躍している方々だけあって大変おもしろく、そして色々と気付かされるところも多々あります。

 もちろん、この本は昨年の電子書籍ブームに対抗する形で出版されたであろうことは明らかで、寄稿した方々も電子書籍に対する自分なりの考えや関わり方、または位置づけ等を語っています。しかし、だからといって徹底的に電子書籍ついて言及しているというふうでもなく、中には殆ど触れていない方もチラホラいたりして、全体としては本や読書について各人なりが広い視点と深い思慮を心掛けた意見が多いように思います。
 また、その多くが頭から電子書籍を否定したり嫌ったりしているわけではなく、冷静に分析してその有用性を認めつつ、これからの本と電子書籍の在り方を慎重に語っているような印象も受けました。

 そんな中、ちょっと気になったことがあります。それはこの著書に寄稿した作家・文筆家の方々に限らず、いろんな分野の知識人が電子書籍について語る時にふとこぼす“ある見解”のことで、様々な紙面やネット、あるいはテレビ・ラジオ等のメディアでもよく見かけるものです。
 それは何かと言うと、自分としては「やはり本は紙がいい、紙で読みたい」などと言いつつも、原稿を書く立場としては、過去ワープロという非常に便利な電子ツールが登場したことで、あっさり(あるいは苦渋の決断で…)紙とペンを捨て去ってしまったという経験が頭を過ぎり、それゆえ紙の本の未来についても同様の憂いを抱いてしまっていることです。

 つまり、結局なんだかんだ言っても電子書籍が今よりもっとハードやソフト、そして何よりその仕組みが充実してくれば、その圧倒的な利便性を前に人々は(そして自分も…)紙の本を読むという行為をあっさり捨て去ってしまうのではないだろうかという漠然とした不安を拭いきれない、という感覚です。

 もちろん、これはワープロ等によるタイピングの便利さを体験した者なら誰でも感じることでしょう。そのこと自体は極めて自然な感覚だと思いますし、正直私にもあります。
 しかし、文章を書くという「過程の作業」が紙から電子に変わったからといって、それは読者にとってはほとんど関係の無いことだと言っていいんじゃないかと思います。確かに道具が変わることにより文体等が多少変化することは十分考えられますが、そもそも書く行為と読む行為はかなり違う感覚なのだから、そんなに気にすることでもないような気が個人的にはするのですけど…。(汗)

 ところで、この「文章を書くに際して、紙とペンを捨て去ってしまったこと」に対して、なんとなく負い目みたいなものを感じるか、あるいはむしろ完全に開き直るかで、その人なりの電子書籍に対する姿勢や捉え方もまた違ってくるように思います。
つまり前者の場合、その有用性を認めつつも「でもなぁ…、なんだかなぁ…」というモヤモヤした気持ちを引きずり続けることとなり、後者だと「もう電子一択でいいんじゃないの?紙の役割は終わったよ」という極論に走ってしまいかねないという…。

 まあ、言うまでもないでしょうが、私は当然前者です。でなきゃ製本屋なんてやってませんし、そりゃもうモヤモヤしまくってます。(笑)…とは言っても、私は完全に紙とペンを捨て去ってしまったわけではなく、今でもペンとノートを持ち歩いては、ふと思いついたことを書きとめたり、たとえばこのブログの下書きのようなものも時間を見つけてはツラツラ書き綴ったりしておりますが…。

 ちょっと話は逸れますが、実際、ペンや鉛筆を使って紙に文字を書くという行為には独特の学習効果がありそうだということは多くの人が経験的に感じていると思います。そして、日頃キーボード入力オンリーの生活になって久しい人達の中には、自分がどんどん漢字が忘れてしまっていることを自覚している人も少なくないでしょう。そんな方には時々ペンや鉛筆を使ってちょっと長めの文章を書いてみることをお勧めしますよ。慣れればけっこう楽しいものです。「別に書くことなんて無いんだけど…」とか「何を書いたらいいのかわからない」という方は、誰か好きな作家の文章を筆写してみるだけでも、何か得られるものがありますよ、きっと…。
 そして、そのときは弊社のノートをぜひに!!(笑)

 と、まぁ、それはともかく…(汗)

 とかく世の中というのは、右に振れたり左に振れたり、あるいは三歩進んだと思ったら二歩下がったりして、そうそう直線的には進んで行かないものです。だからそんなに簡単に紙の本が無くなるとは思ってはいませんが、もし仮に電子書籍(端末)がかなり普及して、多くの子供たちが物心つく前から電子端末で読むことに慣れて育つようになったとしても、だからといってそんな彼/彼女らの皆が皆、生涯に渡って紙の本に何の価値も感じず見向きもしなくなると、誰が言い切れるのでしょう?
 むしろそんな彼/彼女らだからこそ、あらためて紙の本に特別な感情を抱き、価値を感じてくれる可能性だって考えられるし、「これからの子供たちは電子媒体で育つのだから、紙媒体には見向きもしなくなるだろう」と決めつけて考えてしまうこと自体、私たち大人の傲慢で失礼な思い込みなのかもしれない…。(いや、もちろん幼少期からの情操教育は大切ですけど…汗)


 とはいえ、紙の本の総量は減って行くことでしょう。ただ、それはおそらく電子書籍の影響というよりは、これまで論じてきたようなITテクノロジーの発展に伴う読書習慣の変化とか、少子高齢化が進むこれからの日本社会全体のあり方によることの方が大きかろうと個人的には感じますし、当然それは痛みを伴った縮小にならざるを得ないだろうとは思います。

 しかし、それはソレ。どんな物事でも右肩上がりの成長はいつか止まり、やがて下がらざるを得ないことは世の常、理(ことわり)でしょう。私としても、どのみちこれからも製本という仕事を通じて紙の本に関わって行くことだけは確かなのだし、やれることをやれるだけやるしかない!とあらためて思う次第です。

shin-1
2011/01/17 (Mon) 22:20


 特装合冊上製本『十二国記〔景王・中嶋陽子編〕』再開
 特装合冊上製本『十二国記〔景王・中嶋陽子編〕』再開
 しばらく中断していた(7月27日以来)趣味の製本、『コンタクト』に続く第二弾の再開です。
 前回までに本文を合冊するところまでできていたので、その三方にマーブル染めを施しました。けっこう時間が空いてしまったので、まずおさらいをしておきますと、特装合本するのは以下の本です。

小野不由美:作 『十二国記シリーズ』(講談社文庫)

@ 月の影 影の海 上巻
A 月の影 影の海 下巻
B 風の万里 黎明の空 上巻
C 風の万里 黎明の空 下巻

 この4冊の文庫本を一度解体してから一冊に合本して、三方にマーブル染めを施したあと丸背の上製本(ハードカバー)に仕立て直します。(『コンタクト』のときと同様)

 で、今回のマーブル染めの色には幾つかの象徴的な色を使ってみました。どういうわけか写メの画像ではイマイチ上手く写らないのですが、赤い色の染料を多めに使用したので、肉眼では全体的にもう少し赤っぽい印象が強くなっています。

 そして、それはもちろん!(…汗)この4冊に共通する主人公である「景王・中嶋陽子」の髪の色にちなんでいるわけですが、前小口(長辺)中央付近のマーブル模様は「赤」と「グレー」(と、つなぎの白)を絡ませてあります。なぜグレーかといえば、そう「楽俊」です!…って、この物語をご存じじゃない方はわかりませんね、スミマセン。(汗)

 ちょっと説明しますと、「楽俊(らくしゅん)」とは@Aの物語において十二国世界へと連れて行かれ、わけもわからず窮地に陥った主人公・中嶋陽子を救う、とても賢く心優しい半人半獣のねずみのことで、物語上かなり重要な役割を担っています。またその後も景王となった陽子の心の支えとなり、BCの物語においても登場して別の重要な人物を助ける役割を担います。

 ところでBCの物語には、主人公である景王・陽子(と、楽俊)の他に重要な人物があと二人出てくるわけですが、“こちらの世界”では女子高生だった陽子と、見た目が(!)同じくらいの歳に見える二人の女性で、名前は「祥瓊(しょうけい)」と「鈴(すず)」といいます。(ファンの間では「三人娘」と呼ばれております…笑)

 で、楽俊はBCの物語において「祥瓊」を救い導くことになるわけですが、その祥瓊の髪の色は“紺青”なので、天側の小口のマーブル模様は陽子の「赤」と祥瓊の「(紺)青」を絡ませつつ、楽俊の「グレー」も加えてみました。

 そして、もう一人「鈴」の方ですが、鈴は明治時代の日本から十二国世界に迷い込んでしまった人物なので髪の色は「黒」。ということで、地側の小口には陽子の「赤」と鈴の「黒」を絡ませて、あと物語では景王・陽子とは別のところで鈴と祥瓊が出合うことになるので「(紺)青」も少し加えてみました。

 つまり、前小口は“景王・陽子メイン”でそれに楽俊や祥瓊・鈴も少しを絡ませるイメージにして、天小口は“祥瓊メイン”でそれに陽子や楽俊を絡ませるイメージ、そして地小口は“鈴メイン”に陽子や祥瓊を絡ませるイメージにしてみたわけですね。

 そして、忘れてはならないのが、この物語のキーでもある神獣「麒麟」の存在。

 「十二の国に、十二の王とそれに仕える十二の麒麟」というのが、この物語の前提としてあるのですが、景王・陽子に仕えるのは「景麒」と呼ばれ“こちらの世界”で平凡に暮らしていた陽子を十二国世界へと半ば強引に連れて行く、ちょっと…いや、かなりぶっきらぼうな麒麟です。(笑)
 そして麒麟は神獣なので人の形にも変化できるのですが、そのときの髪の色は「金色」(ただし戴国の黒麒麟「泰麒」だけは別)。もちろん、獣(馬型)のときのタテガミも「金色」ということで、見返しには金色の紙を使ってみました。

 表紙の装丁はこれから具体的に考えますが、今回合本する4巻はなんといっても景王・陽子の物語なので、やはり「赤系」のものがいいかな、などと考えております、ハイ。

(マニアック過ぎ?…汗)

shin-1
2010/12/22 (Wed) 23:39


ネット利用時間が長い人ほど実は読書量が多い?
 さて、ここにひとつのデータがあります。ネットユーザーの読書率に関するアンケート調査結果を示したもので、これによると「ネット利用時間が長い人ほど実は読書量が多くなっているので、本離れはしていないし、むしろ読書意欲は高まる傾向にある」というものです。(毎日新聞社が毎年行なっている読書世論調査で「平均読書量」とかでググれば、かなり上位に出ます)

 http://www.1book.co.jp/001963.html  

「 アレレ?…てことは、前回おまえが力説した、人はネットにハマるほど本を読まなくなるっていう説はデタラメか!」なんて言われてしまいそうですが、そういうわけではありません。なぜかと言えば、この調査はあくまで「不特定多数の人によるネット使用率と読書率の相関関係」を示したものだからです。

 わかりやすく言えばこの調査結果は「普段これくらいネットを利用する人なら、本もこれくらい読んでいる」ということを示しているのであり、それ以上でもそれ以下でもないということです。そもそも、本とネットは共に「文字主体のメディア」なのですから、ある意味当然過ぎる結果とも言えます。

 え、全然わかりやすくない?そうですねぇ…。(汗)

 たとえばネットを使用しない人の読書率が39%なのに対し、ネットを3時間以上利用する人の読書率が65%に上がるというのは、そのまま受け取れば確かに「ネットを利用する人の方が本をよく読む」ことを示しているように思えるし事実そうなのですが、ここで気をつけなければいけないのは、ネットを使用しない人の中には元々「文字媒体が苦手な人」も含まれているということです。

 世の中には媒体が何であろうと「文字を読むという行為」自体を嫌ったり、苦手に思ったり、億劫に感じたりする人が少なからずいるものですが、この調査は規模の大きい不特定多数を対象にした調査ですから、そういう人も当然含んでいるはずです。
 で、そういう人はふだんほとんど本を読まないしネットだってあまりやりたがらないので、そういった人達を含む「ネット利用時間ゼロ」層の読書率が低くなるのは当然なのです。それに対してネットを積極的に利用する人は、本来文章を読むことが苦ではないはずなので本だってそれなりに読む、結果、読書率は上がる、といった具合です。

 もちろん!!だからといって、この調査が無意味なわけでは全くありませんし、たいへん価値あるデータと言えるでしょう。ただ、前回までに私(や、カー氏)が問題点して取り上げた「文字メディア好きの本離れ」というテーマに対しては、調査対象の設定などが噛み合っていないだけだと思います。

 そこでもし、この調査の対象が「文字媒体を好む人」に限定していたらどうだったでしょう?
 おそらく「ネット利用時間ゼロ」層の読書率はかなり高いものになると思われます…というか、そもそも「ネットを利用しない文字媒体好き」って、(新聞・雑誌を含めた)読書家のことでしょう。(笑)
で、それに比べたら、やはりネット利用時間が長い人ほど読書率が下がるであろうことは想像に難くありませんし、それは物理的にも心理的にも当然のような気がします。
 まあ、なんにせよ、これについては推論の域を出ませんが…。(汗)
 
 ちなみに、その下に併記されている「テレビ視聴時間と読書率」の関係は、(本とテレビが)まずメディアとしての“カタチ”が根本から違うのに加え、両者がすでに“棲み分け”できている媒体であることを考えると、上記の関係と並べて比較するのは、ちょっとミスリードを引き起こす恐れがなくもないのではないか(どっちだ?…笑)という気もします。
 まあ「テレビ視聴者と読書家」の関係は「ネット利用者と読書家」よりも“カブらない”といった感じでしょうか…。
(ここでいう「読書」は、検討対象の調査自体が電子書籍を含んでいないため、紙の本を読むことに限定しています)


 …ということで、前回からの続きに戻りたいと思います。

 思えば、インターネットは最上の「つまみ食い」ツールと言えるかもしれません。御馳走のつまみ食いは誰にとっても楽しく甘美なものです。しかもそれがほとんど(実質)タダとあっては、そうそう止められるはずもありません。
 そしてさらにインターネットには、人間が習性として持つ動物的本能を強く刺激し、誘引する要素が多くあるようなのです。

 カー氏はいわく…。

《人間の脳の自然状態は、動物界におけるわれわれの親戚たちのほとんどがそうであるように、注意散漫の状態〔distractedness〕である。…中略…人間の脳には原始的な「ボトムアップ・メカニズム」があることを、神経科学者は発見している。…中略…急速かつ反射的な焦点シフトは、かつてわれわれの生存にとって決定的に重要なものだった。天敵に不意をつかれたり、近くにある食料を見落としたりする可能性を減らしてくれるからだ。》(P94〜95より引用)

 続けて…。

《本を読むということは、単一の静止した対象に向かい、切れ目なく注意を持続させねばならない、不自然な思考プロセスを実行することである。…中略…周囲で起こっていることすべてを無視するよう、次々異なる感覚的キューに注目しようとする衝動に抵抗するよう、読者は自分の脳を訓練しなければならない。注意散漫という本能に対抗するのに必要な神経リンクを作り出す、ないし強化することを行ない、自らの注意力に「トップダウン・コントロール」を課さねばならないのだ。》(P95より引用)

 たしかに、長時間に渡って本を読み進めることは、ときに忍耐を伴う行為に思えるときがあるのに対して、インターネットのアレコレはまるで人間の隠れた動物的本能に直結しているかのように、いつまでやっていたい誘惑に駆られてしまうことが多いように感じます。(少なくとも私は…)
 もちろん本だって本当に面白いと感じたものは、時間を忘れて読みふけってしまうことが今でもしばしばありますし、いわゆる「読書中毒」という言い方もあるくらいですから、ネットのみが中毒性があるとは言い切れないとは思います。

 が、しかし「読書中毒」と「ネット中毒」は、なにかが根本的に違っているような気もしないでもないので、次回はその辺の話をもう少し詰めていきたいと思います。(…って、いけるのか?!)

shin-1
2010/12/16 (Thu) 22:48


ネット時代の読書について。その2
(続きです)

 まず、この著書の中でカー氏は、自身の経験や親しい識者の友人・知人らの証言として、自分たちがもはや本のような「直線的で長いテクスト」を、じっくりと読み進めていくことができない体質になってしまっているということを、幾つかの例を挙げて告白します。もちろん、そうさせているのは「インターネット」のことですね。

《ウェブ上であれ、印刷されたものであれ、長い文章を没頭して読む能力を自分はすっかり失ってしまった》
 (ミシガン大学の病理学者フリードマン)

 《もう『戦争と平和』が読めないんだ。そんな能力はなくなってしまった。ブログ記事でさえ、三、四段落よりも長くなるともう集中できない。斜め読みになってしまう。》
 (同フリードマン) 

《学生たちに丸一冊本を読ませることが、もうできなくなっている》
 (デューク大学教授キャサリン・ヘイルズ)

《たくさん読んでいる。少なくとも、たくさん読まなくてはいけない―ただしそうはしていない。斜め読みしている。スクロールしている。練り上げられ、ニュアンスに富んだ、長い議論に我慢強くつき合うことがほとんどできない。人に対しては、世界を単純化しすぎていると非難したりするくせに》
 (コーネル大学大学院博士課程フィリップ・デイヴィス)


       そして、それを自覚しつつも、そんな状態を肯定的に捉えた意見として…。
 

《インターネットによってわたしは忍耐力のない読者になったが、いろいろな意味でもっと賢くなったと思う。文書や作品、人々とより多くつながるということは、外部からの影響がより多くわたしの思考に与えられるということだ。したがって、わたしの書くものに対してもそうである》
 (同デイヴィス)

《ぼくは本を読まない。グーグルへ行けば、関連情報をただちに吸収できるのだから》
 (フロリダ州立大学哲学専攻ジョウ・オシェイ)

《じっと座って、一冊の本を最初から最後まで読みとおすなんてナンセンスだ。あまりいい時間の使い方じゃない。必要な情報は全部、もっと速くウェブで手に入れられるんだから》
 (同オシェイ)


…というような見解も併せて紹介しています。

 つまり、人はネット環境に親しめば親しむほど…というか、ハマればハマるほど、本などという長ったらしい書き物を悠長に読み進めるだけの集中力を失ってしまうものである(…が、その善し悪しも本人次第)という趣旨ですね。

 もちろんこれはかなりネット中毒が進んだインテリの、それもIT大国アメリカの極端な例にすぎないかもしれません。しかし、今後世界中でIT化が進む一方であるならば、こういう傾向は増えこそすれ減ることはないでしょう。中毒性のあるものは人類共通ですからね。

 考えてみれば、かつてテレビは我々を「ザッピング中毒」にしました。番組が興味のない内容になったり、CMに入るや否や、何かもっと面白い番組をやっていないか、飢えたようにリモコンのチャンネルボタンを押しまくるという…。
  もちろん、今でもそういう人はたくさんいると思いますが、私自身は最近、地デジリモコンの反応の悪さに僻々してあまりやらなくなった…というか、観ること自体少なくなっております…(汗)
また、私はやらないのですが「ゲーム中毒」もその典型と言えるでしょうね。

 そして、いまネット環境にどっぷり浸かっている人達は、程度の差こそあれ、まず間違いなく「クリック&スクロール中毒」に掛かっているのではないでしょうか。お気に入りのサイトを訪ね歩き、検索に次ぐ検索で何かを調べ、リンクからリンクへと飛び移り、そして掲示板やSNSのサイトで何か面白い発言がないか探しまわるといった具合に、絶えずマウスを動かし続けているという…。

 正直、私自身たまにとれた休日も、気がつくと「クリック&スクロール」で一日を潰してしまうことが多くなり、「この本はぜひ読まなきゃ…。よし読むぞ!」という目的意識を強く持ったときにしか、なかなか読まなくなっていました。ネットを始める前は少しでも時間が空けば、むさぼるように本を読んでいたのですけどね…。(汗)
 もちろん、だからといって読書が無駄なことだとはとても思えず、それらについてあれこれ考えているときにたまたまこの本を読み、色々自覚しながら想いを巡らすようになったというわけです。

 それについては、また次回に…。

shin-1
2010/12/13 (Mon) 22:17


 ネット時代の読書について。その1
 ネット時代の読書について。その1
 さて前回、最後にご紹介した引用文には、まだ続きがあります。

《ラマルチーヌは間違っていた。その世紀の終わり、依然として本は存在しており、幸せそうに新聞と共存していたのだ。だが、本の存在に対する新たな脅威はすでにそのとき生じていた。トマス・エディソンの蓄音機である。文学を読むよりも、文学を聴くほうが一般的になるだろうことは明らかだと、少なくともインテリ層は思った。『アトランティック・マンスリー』誌の1889年のエッセイで、フィリップ・ヒューバートはこう予測している。「本や物語のうちの多くは、出版という日の目を見ることがなくなるかもしれない。それらは表音文字として、読み手に、いや正確に言えば、聞き手にゆだねられるのだ」。音声を再現するだけでなく、記録することも可能である蓄音機は、韻文を編み出す道具として「タイプライターをも凌駕する可能性」を有していると彼は述べる。
                 −中略−
 その5年後、『スクリブナーズ・マガジン』誌は、本に対してとどめの一撃を加えた。フランスの著名な作家・出版者であるオクターヴ・ユザンヌの、「本の終焉〔The end of Books〕と題された記事を掲載したのだ。ユザンヌはこのように書く。「親愛なる読者よ、本の運命についてわたしがどう考えていると思われるだろうか。われわれの精神活動の所産を解釈する手段としてのグーテンベルクの発明は、遅かれ早かれすたれるほかないと、わたしは考えているのだ(電気に関する技術の進歩、および現代の機械の発達が、それ以外の考えをわたしにゆるさないのである)」。何世紀ものあいだ「人間の精神を専制的に支配してきた、幾分古めかしいプロセス」である印刷は、「音声記録」に取って代わられ、図書館は「音声記録保管所」へと姿を変えるであろう。》
(ニコラス・G・カー著「ネット・バカ〈インターネットがわたしたちの脳にしていること〉」P155〜157より抜粋)

 誰もが知るように結局この予測は実現せず、蓄音機はその後音楽を録音/再生する装置として目覚ましい進歩/発展を遂げることとなり、前回の新聞同様、本を滅ぼす存在にはなり得ませんでした。
 いつの世にもテクノロジーの進歩/発展にときめくあまり、少々短絡的な未来予測をしてしまうインテリさんはいるものだという、ちょっとおもしろいエピソードではありますが、よくよく考えてみるとこれは無理のない話でもあるのです。
 というのも、当時は音楽と言えば100%生歌・生演奏しかない時代ですから、音楽が何かの装置・媒体を通して録音され再生されるなどという発想そのものが無かったわけですし、夢にも思われなかったでしょう。
 一方、本は百数十年も前の当時ですら一部の知識人から「何世紀ものあいだ、人間の精神を専制的に支配してきた、幾分古めかしいプロセス」という認識を持たれていたくらいの記録媒体ですから、蓄音機の発明に目を見張った当時の人々が「これは本に取って代わるものに違いない」と夢想したとしても、それほどおかしなこととはいえないということです。
 加えて当時のヨーロッパには「本とは本来音読(声を出して読む)すべきものである」という中世の頃のかたくなな通念が、まだ幾分かは残っていた時代という事情もありますし…。(その辺のことは、この著書の中に詳しく記されています)

 もちろん、ほどなくして蓄音機は音楽の録音・再生にこそ最適であることが明らかになり、当然世の中の需要やトレンドもそちらに流れたであろうことは想像に難くありません。まあ、それでも当時の進歩的な識者の中には「この素晴らしい機械をそんなことに使うのは邪道であり、あくまで本に取って代わる言語再生装置として進歩/発展すべきものだ」と、しばらくの間は思っていたかもしれませんが…。

 とにかく、あるひとつのテクノロジーがどのような進歩/発展を遂げるかという予測はなかなか容易なことではないわけで、電子書籍(端末)も紙の本に取って代わる媒体という方向性だけで捉えないほうが良いだろうと私は考えます。と同時に、やはり同じ「書籍」というのであれば、紙と電子が力を合わせてもっと「大きな存在」に向き合わねばならないだろうという想いがあります。

 では、その大きな存在とは何か?といえば、もうお察しの通り「インターネット」ということになります。あるいは「ネットに順化した社会」と言ってもよいでしょうね…。

 もはやインターネットは、現代社会になくてはならない情報インフラになっているといって言い過ぎではないでしょう。そして、既存の産業を衰退・消滅させたり、構造変革を迫ったりと大きな影響力を示しながら膨らみ続けています。しかもそれは、そういった社会的な仕組みに留まらず、人間の脳の機能…すなわち思考の形態そのものにすら、大きな変革をもたらし始めていると言ってよいのかもしれません。
 そして、このことは画像にもあるニコラス・G・カー氏の著書「ネット・バカ〈インターネットがわたしたちの脳にしていること〉(青土社)」において詳しく語られています。(ただし、カー氏は「紙と電子が力を合わせて云々…」とか、「本はネットに立ち向かえ!」などと言っているわけではありません、念のため…汗)

 そこで、まずこの本の概略を説明しておきましょう。

 著者は1959年生まれで50歳を過ぎたばかり。アメリカ合衆国において、PCの黎明期からIT技術の発展に並々ならぬ関心を寄せ、かつ使い倒し、自身ネット漬けの身であることを十分に自覚しつつ、安易なIT楽観論とは一線を画す立場の知識人と言ってよいでしょう。
 この著書でも、自らの体験や様々な実験、そして脳科学的見地等も視野に入れて、冷静かつ多角的にインターネットというツールがはらむ問題点について、説得力ある語りを繰り広げます。

(その2に続きます)
2010/12/13 (Mon) 22:00