チャンカーはマリオン


 ●●●  限界点
限界点
NY入国拒否から10日経った。本当であれば今日が帰国日。しかし早く帰国したことで札幌で4件のジャムセッションに参加できた。
明日、毬音5回目の月命日。余市へ墓参りに行く予定だ。今回の月命日には何が喰いたいか聞いてみた。今回はかっぱ巻きよりオムライスが喰いたいらしい。どこかで買ってお参りに行こう。以前、僕と同じく奥さんを癌で亡くされた方に悲しみの乗り越え方を教えてもらおうとメールをしたことがあった。その方は奥さんを亡くして半年から1年の間が一番辛かったと言っていたが、毬音を喪ってすぐの深い悲しみの渦中の僕には何故半年後なのだろうとわからなかった。まぁその方の奥さんを喪ってから半年後の辛さがどんなものだったかはわからないけれど、僕の場合は今「毬音と会えないで耐えられる限界」に来ている。毬音に会いたくて会いたくて気が狂いそうに辛い。単なる独りになった寂しさであれば誰かと会ったり一緒に居ることで紛れるのだが、今回は毬音でなければダメなのだ。絶対に叶わない心の欲求に対して、僕はなすすべが無い。毬音は常に一緒に居る事は承知しているが、肉体を持つ僕には温もりを感じなければ欲求を満たされないという未熟が辛さを誘う。 その気持ちを共有してくれる人が身近に居れば少しは救われるのだろうが、ただただ独りでジッと耐えるしかない。5ヶ月も経てば、毬音の逝去は周りの人たちにはすでに過去の出来事であり、今の僕の心境を吐露するにはズレがありすぎる。こんな思いがいつまで続くのか。正直言って僕には生き抜く自信は無い。しかし独りで生き抜くしかないのだ。毬音のためにも。
2005/11/15 (Tue) 10:54

 ●●●  あと7年の説明
エジプト文明・マヤ文明・アステカ文明などなど古代文明には未来にわたるカレンダーを持っていました。古代文明に共通しているのは非常に発達した天文学です。各文明がつながりを持っていたかどうかは不明ですが、何故かどの文明においても同じ日でカレンダーが終わっています。現代で新たに発見された天文学の事実はすでに古代文明に記されていたりします。そんな正確な古代天文学で割り出されたカレンダーの最後の日付が2012年12月22日、僕が54歳の誕生日を迎える前日で終わっているそうです。ある学者は言います。「時間というのは”0”に向かってらせん状に進む。だから同じ1年365日・1日24時間であっても加速度的に早くなる。そしてその到達点が0、時間の消失だ。」
その後がどうなるのかは誰も明確にできませんが、とにかく僕はその日を楽しみに待つのみです。
まぁその前に毬音と一緒になれるかもしれませんけど。
2005/11/10 (Thu) 17:29

 ●●●  毬音の居ない初雪
毬音の居ない初雪
札幌では平年より遅い初雪になった。去年はマリオンが入院している10月に降った。去年の今頃、マリオンは珊内で散歩に励んでいたのを思い出すと、今日の冷え込みが身にも心にも沁みてしまう。アメリカ入国拒否で札幌に帰り、何も無かったような日々に戻った。戻ってみると今週は札幌では多くのジャムセッションがある週だった。なので早速6日のジェリコ8日のスローボートと叩きに出かけた。明日10日はくうでジャムセッションで、14日はアフターダークカフェ。NYに行ってる場合じゃないと毬音が僕を引き戻したのかもしれない。
昨日久々に行ったスローボートで知っている人がいて札幌に移り住んだ事を話す。「奥さんも一緒ですか?」と言われて毬音の逝去を伝えカウンターに置いていた毬音瓶を見せる。ここしばらく落ち着いていたと思っていた僕の気持ちが一気にこみあげ泣き出しそうになるのを必死に堪えた。
以前 同じように奥さんを癌で失った人にメールをしたことがある。その人は奥さんを喪って半年から1年の間が一番辛かったと言っていた。最初なぜ辛いのは半年後からなのか不思議な気がしていたが、毬音を喪って5ヶ月、なんとなくわかってきた。会えない時間の限界点なのかもしれない。毬音が居ない寂しさから毬音の記憶を必死に手繰る。すると一番近い記憶に触れる。それは息を引き取る瞬間。この記憶に触れてしまうと外を歩いている最中だろうが、地下鉄の中だろうが、涙が止まらなくなる。比較的 毬音が元気だった頃を思い出せば、さほど苦しくは無いのだが、どうしても今現在の状況を比較させてしまい、そこにはまるといきなり悲しみに襲われる。 先日携帯の機種変更してきた。同じ機種を持ち続ける事で毬音からの着信を待ってしまう自分が居たから、踏ん切りをつける上でもいいかと思ったのだが、それ以外でもいろいろと毬音の知らない事が増えるのは、やはり寂しく切ない。  あと7年。待っていてくれ毬音。
2005/11/09 (Wed) 23:35

 ●●●  1泊のニューヨーク
11月2日、無事に成田からニューヨークに飛び立った。12時間の禁煙にも耐えてJFK空港に到着。そして入国審査。ここで問題発生。普通ならパーミットのはんこを貰い無事入国となるのだが、僕はオフィスに行けと指示される。そしてオフィスで10年前の不法滞在を指摘され入国拒否になった。その日の日本行きの便は無いので、不法入国者などを収監する施設がNJにあり、僕は空港から1時間半ほど離れた施設で一晩過ごし、翌日即刻日本に送り返された。12時間飛行機に乗り、7時間入国管理室で取り調べされ、5時間施設で過ごし再び14時間の飛行機の旅で戻ってきた。その間辛かったのは禁煙。たった1本だけ喫煙できたが、あとはニコレットで耐えた。しかし僕の性格は得なのか損なのか、そんな状況でもまったく悲観を感じず、どちらかといえば体験中といった充実感があったりして、ちょっとバカかもしれない。ただ申し訳なかったのは毬音にニューヨークを見せられなかったことだ。入国管理の人々も僕の事情を知って同情してくれる人が多く、「俺がボスならすぐ入国させるんだがなぁ」と言ってくれる。テロ以降のアメリカはなんだか間口が狭くなったようだ。各部屋の壁にはブッシュの写真が飾ってあり、民主主義国というより、北朝●とたがわない気もした。あの寛大さはどこへ行ったんだUSA! まぁ僕の場合、今後は一切ノンビザでは入国できず、渡米するにはビザが必要だというだけの話。完全入国拒否というわけではないのだ。アメリカ国内で大きな犯罪を犯したのではないが、一応今回全ての指紋を取られ顔写真からいろいろと取り調べられたから、ある種のリストには載ってしまったのだろう。何かあれば即照合される対象になった事は確かだ。 しかし入国管理オフィスでは毬音瓶にみんな注目していた。一部どうにもならんバカなヤンキーオフィサーが居たが、それ以外は没収されてた結婚指輪も収容施設の管理者が、「これは結婚指輪だろ。俺は絶対に結婚指輪は外さない。だから君もしてなさい。」と入れてあったビニール袋を破り開けて取り出してくれた。本来荷物は全て預けなければならないのだが、毬音瓶は持っていていいと言ってくれた。この状況でも毬音はパワーを出していた。 今回ニューヨークに入れなかったには絶対に意味があるはず。今はわからないが、きっと何かあるのだろう。普通に旅行してたとしたら出会えなかった人、できなかった経験、わからなかった事々があるのであって、毬音は何かを僕に伝える為にこの事態を引き起こしたと信じている。なんだろう??? ここでは手狭なので詳しくはHPの方にアップ予定です。ただし、写真は一切ありません。なんせ荷物は没収されてたから。
2005/11/05 (Sat) 1:45

 ●●●  シンガー・遠藤ミチロウさん
シンガー・遠藤ミチロウさん
今日は小樽の一匹長屋という店で、毬音が大好きだったシンガー・遠藤ミチロウさんのアコースティック・ライブへ毬音を連れて行った。僕はあまり詳しくないのだが、ミチロウさんは以前スターリンというパンクの世界では名のあるバンドのボーカルの人である。毬音はスターリンのビデオやCDを持っているのだが、僕は聴いた事はなかった。なのでミチロウさんの名前は知ってたが演奏を聴くのは初めてだったし、パンクを聴くのも初めて。毬音とミチロウさんと店のマスターとはかつてから交流があったので、僕は事前に毬音を連れて行く事を伝えていた。 早めに店に着き、マスターとミチロウさんと話しをする。ミチロウさんに毬音の話しをすると、僕は泣き出してしまった。どう頑張って堪えても涙は止まらない。ミチロウさんは毬音瓶を両手で包むように大切に抱えてくれた。そしてステージのピアノの上に毬音瓶を置き、特等席を用意してくれた。毬音は誰よりもミチロウさんに近い所でしかも滅多に見る事は出来ない背後からの観賞になったのだ。ライブが始まっても僕の涙は止まらない。でもその涙は悲しいからでは無いと気付いた。嬉しくて涙が止まらないのだった。毬音を思ってくれるミチロウさんの気持ちなのか、それとも毬音の気持ちが僕に憑依したのか、とにかく僕は嬉しくて泣いていたと思われる。ライブ終了後、ミチロウさんはこの6月に出した新譜CDに毬音の本名に宛てサインを入れてプレゼントしてくれた。一匹長屋のマスターにおいてもミチロウさんにおいても、毬音を囲む全ての人は本当に優しい。ミチロウさんの歌はとても過激である。絶対に放送出来ない歌詞である。が、しかし人としてとても優しい。それはあれだけ過激な歌詞を書けるには繊細さを持ち合わせなければならないと思うのだ。毬音にミチロウさんに会わせてもらい、人の優しさを教えられた。これからもまだまだ毬音に教わる事は多い。明日から毬音とニューヨークへ行く。
2005/11/02 (Wed) 0:13

 ●●●  帰る場所は独り
帰る場所は独り
毎年参加している小樽ジャズクラブの合宿に参加してきた。場所はニセコ。残念なことにカメラも携帯も忘れて行ったので、写真を見せられないが、ピークは越えたが紅葉が美しく、降っていた雨が雪に変わり、色づいた山々と落ちてくる雪のコントラストが見事だった。去年の合宿は毬音は札幌に入院していた。もう退院の見通しもでてきた時だったので、毬音は合宿に行っておいで!と言ってくれたので参加できた。それでも僕は毬音が気になって1泊明けてすぐ合宿先から札幌に戻った。去年も札幌から参加するかたちだったが、家は珊内だった。今年は札幌から参加、札幌しか帰る場所は無い。そして今回の合宿は毬音を初めて連れて行った。姿は無いが毬音瓶を持って行って一緒に参加したのだ。しかし今回ふと思いとても辛かったのは、もう家で待つ毬音が居ないことだった。それを
思うと和やかな合宿での演奏を聴きながらも涙が出てしまった。毬音が居ないから、携帯を忘れても構わなかった。毬音以外に連絡を取ってくる人は居ないのだから。かかる当ての無い携帯電話は1日2日置き忘れても構ったことじゃないのだ。
ちなみに去年僕が合宿に参加してた時毬音から届いたメールの内容は・・・・
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サブジェクト:がんばってる?

本文:今日は一日点滴が外れて楽でした。シャワーも入ったし洗濯もしたよ。九州のお母さんから食料が届いたよ。じゃあ頑張って叩いてきてね
■■■■■■■■■■■■■■■
合宿の帰り道、僕はジャズクラブの人たちとは別に、珊内に立ち寄った。住宅はまだあった。やっぱり珊内は良い所だと思った。その後余市に寄り毬音の墓参り。先週の日曜にお参りしてからだから1週間ぶりだったが、新しい花が供えてあった。誰かがお参りしてくれたのだろう。感謝! 札幌までの道のりで毬音と会話をした。「吟ちゃん幸せ?」毬音が訊ねる。「今は毬音を喪った悲しみ苦しみで辛いけど不幸せではないよ。なぜなら、毬音と出会え一緒になれたから」と答える。毬音も言う「吟ちゃんが悲しんでると辛いけど、不幸じゃないよ。吟チャンと出会えたから」
今回の合宿には毬音のお気に入りの派手なスカジャンを着て行った。
2005/10/30 (Sun) 21:40

 ●●●  炎
炎
座布団2枚を並べて毛布にくるまった珊内ではいつもながらの寝床で目覚めると、やはり何も無い部屋だった。最後に部屋の片付けをして各部屋に挨拶を済ませ鍵をかけて家を出る。実は我が家のトイレはとても汚い。それは毬音が人口肛門がらウロを出した際に便器に付着してしまうからであった。しかし僕はその付着した汚れを落とせないで居たのだ。なんだか毬音の証のような気がしていたのだろう。だからトイレはそのままで出てしまったのだった。しかも汚れた便器を写真に収める始末。出来ることならその便器も持って行きたいくらいだった。僕には毬音の汚物までもいとおしく思える。この家も、玄関を開けて「ただいま!」と言う事も無く、家にとってもその言葉を二度と聞く事は無い。ただ心残りなのは、庭の縁台に居る猫のスーだ。顔を合わせるのが辛かったのでそっと逃げるように出てきてしまった。でも毬音がちゃんと説得してくれているだろう。最後の荷物を積んだ車ですぐそこの珊内の墓地へ行き、かもいユースのかあさんの墓に挨拶に行き、毎月の月命日のお参りが出来ない事を詫びる。浜に下りて時々小雨が落ちてくる中、まず毬音の骨粉の着いたポプリを海に流した。それから毬音の古着と僕の古着とがん治療に関する本や僕の使い古したドラムのスティックや諸々を焚き上げた。結局札幌からの知人が珊内に到着する前に火を点し、ひとりで燃える炎を見守った。燃え残しが無いように丹念に手ごろな流木でかました。炎の熱さと煙で、悲しみどころでは無く、火に入る心配はまったく無かったが、一瞬煙の燻しが途切れて毬音の匂いを感じた。僕の横で一緒に炎を見ていたのだろう。火か消えるのを見届け、いつもの買い物の街岩内に行き馴染みの店に挨拶をする。その時、僕の携帯が鳴り札幌から駆けつけてくれた知人が「珊内に着いたけど何処に居るの?」と連絡が入る。無事お焚き上げは終了したので余市で待ち合わせをして一緒に毬音の墓参りしてもらう事にした。僕はその前に毬音の実家に寄る。ヘルニアで小樽の病院に入院していた毬音父から、今朝僕の携帯に「昨日退院したので家に居ます」と伝言が入っていたので、毬音のフォークギターとラジカセと靴を預かってもらう為に立ち寄った。実家で毬音の部屋に荷物を持ち込む。結婚前、一度だけ毬音の部屋に入った事があるだけで、これが二度目だったが、結婚前の情景が浮かんできて一気に悲しみがこみ上げる。ここで僕が涙すると、きっと毬音父も涙が出るだろうと必死に堪えた。待ち合わせに少し遅れて、曇り空のせいもあり薄暗くなったお寺に毬音の墓参りに行く。知人の元気な5人の子供達にも1本ずつ線香をあげてもらう。「今日は賑やかで楽しいだろ!」毬音に語る。おかげで僕も涙することなく墓参りができた。今日から帰る場所が札幌・琴似になった事が少し寂しい。
2005/10/23 (Sun) 23:51

 ●●●  珊内最後の夜
今日最後の荷物、冬タイヤ・ドラムセット・毬音のギターを積むために珊内へ戻る。住み慣れ、思いだすにはまだ辛いが、僕の人生で最も重い経験と濃厚な想い出を授かった珊内の家、荷物は全て運び出され何も無いこの家で今夜を過ごす。テレビも何も無い。頼りは持って来たMP3プレーヤーで聴く音楽だけ。さすがに家財道具の消え何も無い家の中は僕の執着を沸かせる事は無いようだ。入居した時のガランとした状態のこの家を毬音は知らないわけで、その時まで記憶を遡ると、こんな広い家で自分一人暮らすのかと4つある各部屋の使い道を考えていた。まだ毬音と出会う5年前の事。 だからこの状態の我が家は毬音との想い出に耽るより、ニュートラルに近い気持ちにさせる。 だが明日、浜で毬音と僕の古着や諸々を燃やす段になればわからない。ひょっとして僕自身が炎に飛込む恐れもあるわけで、監視として札幌から知人も参加してくれる事になっている。 札幌から珊内に来る途中、毬音の実家のある余市のスーパーでかっぱ巻を見つけ購入。珊内最後の晩餐はかっぱ巻になってよかったなぁ、毬音。毬音父は入院中で実家は留守なので、立ち寄る事
はしないが、しかし余市を通る度涙が溢れて仕方ない。 既に日が暮れていたので、墓参りもしなかったが、明日は明るい内に余市に寄り、お参りしたい。 毬音は言う、「いつだって吟ちゃんの側に居るんだからね」。それは解っているが、生身の僕には寂しくて悲しくてヤりきれないのだ。 今思う事は、珊内を出る決心をして本当によく実行できたものだと。珊内を出る決心をし、仕事を辞めた時点で僕は迷っていた。本当に珊内を出ていいのだろうか。 現時点で思うのは、仕事を辞めて珊内から出れなかったとしたら、辛い毎日に錯乱して引きこもる生活になっていただろう。札幌に出た事が正解かはわからないが、珊内を出た事は良かったと思えた。毬音を忘れる事は生涯無い。むしろこれから魂・毬音との新しい生活スタイルを築いていくのだろう。 そこには誰か僕と連れ添う女性が現れたとしても毬音と申し合わせた「ずっとずっと一緒だよ」の約束は破られる事は無い。何故なら、毬音と僕は同体として生きて行くから。
2005/10/22 (Sat) 22:57

 ●●●  ここで生きる
ここで生きる
引越の荷物もほぼ新居に収まった。毬音が嫁入りで持ってきた妙に使い勝手の悪い本棚らしき物があるのだが、毬音はかなりこだわりのある一品。それは今では毬音の祭壇になっている。今日はガーベラの花を買ってきてお供えした。僕は魚がそれほど好きで無いのだが、毬音の意見で晩飯は焼き秋刀魚弁当。まず毬音の祭壇に供えてその後僕が頂く。昼間は区役所(村役場とはえらく違うものだ)へ転入届・国保・年金の手続き。そして職安へ住所変更とヘルパー2級受講申し込み。最初僕は要望する職種に「介護」とは書いていなかった。それは失業保険の手続きをした後になってホスピスでの求人でヘルパー2級が条件の求人を見つけたからだ。札幌の職安で、「今まで別の職種で求職されてますよね。まったく別の介護職の職業訓練受講となると審査対象になるかどうか・・・」と言われる。僕の状況を切々と説明するのも面倒だったので簡単に経緯を述べた。そこで切々と説明すると涙が出そうだった事もあるのだが・・。職安職員は事務的に「そうですか、ではその旨を付け加えて紹介しておきます」と言う。果たして僕はヘルパー2級を受講出きるのだろうか。
新居は思ったほど荷物でごった返す様子もなく上手く収まった感がある。結構落ち着ける部屋になったと思う。 毬音にも「どうだ!俺のレイアウトは!いい感じだろ!」と声にしたにはしたが、実際に毬音に見て欲しかった。今日はまた悲しみが襲う。

毬音に伝えたいことが山ほどある。
●岩内のつぶれたコンビニの後に出来た食堂。今度食べに行ってみようと言いながら一度も入れなかったけど、その食堂もつぶれたよ。
●車のマフラーが錆び錆びで壊れて取替えで5万もかかってしまった。参ったよ。

後はまたの機会に教えるよ。

あ〜今夜はダメだ。辛い。
2005/10/21 (Fri) 20:54

 ●●●  音の響く部屋
音の響く部屋
我が家はほとんど荷物が片付きガランとしている。明日冷蔵庫・洗濯機・テレビなどの大きな家電品を引越屋が取りに来る。珊内でインターネットISDN接続は今夜が最後。明後日からは札幌でADSL接続になる。僕は今まで引越は多かったが、同じ部屋での滞在期間で言えば珊内は最長になった。人生で最高の時間を送らせてもらえた。そして、人生最大の悲しみを経験させられた。まだ過去形に出来るに至らない悲しみではあるが、毬音は僕の腕の中で逝く運命にあり、僕は毬音を看取る運命だったのだろうと理解できるまでにはなった。 引っ越す度に思うことは、荷物がなくなった部屋はよく音が響く。その響を聞くと今までそこで過ごした時間が夢だったように感じるのだ。僕は決まって最後に部屋を出るときは深々とお辞儀して「今までありがとうございました」と大きな声でお礼を言う。どんなに辛い思い出しか無かった部屋であっても。 僕が出た後には取り壊される珊内のこの家にとって僕と毬音が最後の主であり、きっと僕と毬音の記憶を鮮明に持ちながら土に帰るのだろう。 昨日毬音瓶のポプリを入れ替えた。その際砕けて粉になった骨を別にして形ある骨だけ瓶に納めなおした。そして粉は珊内を去る最後の日に庭にわずかだが散骨しようと思っていた。法的に言えば埋めると罪になるらしいが、妙なもので撒くには法的規制はないらしい。 今夜の珊内は冷えている。ストーブをつけてもガランとした我が家は寒い。その分空気がピンと張り満月が美しい。その月に誘われて、今夜月明かりの下で毬音の粉を庭の土に還した。ほんの数つまみだったが、毬音は珊内そのものになった。粉をつまんだ指。もちろん僕は舐めて舐めて舐めまわした。ひと微粒も無駄にしたくないし、僕の中に毬音を宿すつもりで。 明日札幌に行くわけだが、今週末また珊内に戻り毬音と僕の古着を浜で燃やし、毬音瓶に入っていたポプリを毬音が好きだった珊内の海に流す。
今夜はガランとした空虚な家をついつい頻繁にうろついてしまう。それは自分の空虚な心の中を寂しさから逃げるように彷徨う姿の投影かもしれない。 
2005/10/18 (Tue) 22:55

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