チャンカーはマリオン


 ●●●  2005年10月16日毬音
わざわざ札幌から友人が我が家の荷物を札幌へ運ぶのを手伝いに来てくれた。本当に有り難い。我が家には家具という家具は無いので、冷蔵庫や大きな家電物は19日引き取り20日配送の手配はしてある。今日はその他の雑多物を車2台で運んだ。今日は毬音の4回目の月命日。花を買い友人も買い足してくれて一緒に墓参りをする。墓参りの度に僕は般若心経をあげる。線香が燃え尽きるまでしばし毬音と語らう。友人の前で無様であったが「やっぱり毬音が居ないと寂しいよ」と言うやいなや涙が溢れてきた。毬音は常に側に居るのはわかっていても、凡夫の僕には会えない寂しさ、触れられない辛さ、語り合えないもどかしさで泣くだけだ。 これ以上墓前に居れば泣きやまなくなるので、涙を拭い札幌へ車を走らせる。日曜だけあって車が多い。札幌の新居に到着、さっさと荷物を部屋へ運ぶ。今度の家は3階。階段を行ったり来たりでバテた。日頃の運動不足がたたる。荷揚げも終わり、お礼にと居酒屋へ行く。しかし友人は「いいから!」と奢らせてくれない。琴似駅で友人と別れ、僕は新居へ。新居で初めての夜を過ごす。まだガスが通ってないので銭湯へ行くが
、札幌だから深夜までやってるだろうと思いきや、11時閉店ギリギリで慌てて入浴できた。まだダンボールが雑然とした部屋で小さなポータブルテレビを見ながら毬音と語る。「これからココで暮らすぞ。いいな!」毬音も僕も苦手な街だが、もし街の暮らしに慣れなければ、また何処かへ流れるだけの話しだ。昔読んだ25セントのブルースという詩がある。『25セント分の切符をください。何処へ行くかなんて知っちゃいない。とにかく25セント分の切符をおくれと言ってるんだ! ただここから離れて行きたいんだ』といった内容の詩だった。 珊内から札幌まで25セントの距離なのかまだ不明だが、未だに僕は行き場が無いと感じている。まぁ 今までの経験で、何処で暮らそうとも、そこが自分の居場所なのだとわかってはいるのだが・・・
2005/10/17 (Mon) 0:53

 ●●●  食欲
食欲
珊内に帰ってきて食欲が出てきた。別に珊内に帰ってきたからというわけではないだろうが、喰える。しかしその食欲を自分なりに分析してみた。自分の食欲を分析する必要なんて無いのだが、昔から自分の状態を知ろうとする旺盛な好奇心がそうさせる。僕は心の隅に毬音はどこかに居ると思い込んでいる節があり、それを打ち消そうとする冷静で残酷な自分が毬音の「死」を思い知らせようとしている。そんな葛藤からの逃避と、ひとり残されどんなに待っても誰も戻ってこない、どれだけ待っても独りである現実。それらからの逃避が食欲になっている気がする。食べることで空虚を埋めようとしているのだろう。これは過食症につながっていくのだろうか?ただ救いは、珊内では簡単に食い物を入手できないことだ。コンビニまで車で40分。しかも今は22時から翌5時まで道路は通行止め。
荷造りはかなり進み、部屋の中が閑散としてきた。毬音との生活の形跡も消えつつある。これはこれで寂しい。先行きに希望を見い出せればいいが、世渡りが下手な僕には不安だらけ。珊内に残るも辛く、出るも辛いが、状況は珊内を離れるしか選択肢は無い。札幌が僕を受け入れてくれるのか、こんな屁たれに何が出来るのか。何一つ自信の無い僕は自分の無分別を信じるしかない。  まだ風邪は治ってないのか、熱っぽさで体がだるい。最近は明け方まで起きている事は少なくなり、昨夜は1時前に寝て今朝は6時頃目覚めた。このリズムを保ちたいものだが、いつまた波が襲って来て悲しみの底に引き込まれるかわからない。
2005/10/13 (Thu) 0:17

 ●●●  毬音追悼ライブ
今日は毬音の追悼ライブをやる事で、毬音への思いが強かったのか今朝から涙がよく出た。札幌のウィークリーマンションをチェックアウトして小樽へ向かう。ライブの時間には早くて、小樽のフェリーターミナルで暇をつぶす。このフェリーターミナルは、大阪で毬音が意識混濁におちいり急遽北海道に帰りついた場所である。ここから西に向かえば我が家のある珊内。しかし毬音は逆の東に運ばれ、二度と珊内には帰らなかった。それを思うとまた涙が出て止まらない。ライブの時間が迫ってきたので出演する店フリーランスへ行く。僕のユニットMARIYOONはその日出演するいくつかのバンドの一発目の演奏だ。午後2時ステージを始めるにあたって、今回のバンドは僕のリーダーバンドなので、僕がMCを入れる。バンド名の経緯・演奏曲目紹介など・・・話しながら自分が泣きそうになり背中には毬音を背負い慌てて演奏に入った。最後の一曲は毬音の好きだった曲を歌入りで演奏した。歌ってくれたのは毬音の通夜にも駆けつけてくれた女性。彼女も毬音への思いで歌いながら泣いてしまったのだった。僕は毬音をこんなに思ってくれる人が居るだけで本当にありがたかった。ギターは毬音の嫁入り道具だったエレキギターを使ってもらった。僕は演奏に入ると精神集中してしまい泣くどころではなかったが、自分の出番が終わったあとが辛かった。 いつもなら毬音と次何処のライブを見に行くか相談しながら歩き回るのだが、今日は一人で動けないで居た。ただ毬音の好きだった曲・サニーを演奏するから見に来てくださいと言ってくれたバンドは見に行ったが、サニーを聴きながら涙がこぼれる。その後は何処にも行けず、ただホテルの部屋で泣いていた。 これからも毬音に届けるために演奏を続ける。
2005/10/10 (Mon) 0:53

 ●●●  寒い珊内
寒い珊内
昨夜は深夜0時に札幌を出て珊内に車を走らせた。途中、毬音の余市の実家の前まで回り、ゆっくりと通過させた。毬音父は寝ているだろうから家には上がる事はしなかったが、毬音に「お父さん夢に出演しておいで」と促す。昼間なら札幌ー珊内間は2時間半から3時間かかるが、交通量の少ない深夜だと2時間ほどで到着。だから2時過ぎに寒々とした珊内の我が家に着いた。やっぱり我が家は落ち着く。しかし来月には取り壊されて無くなってしまう現実が僕を追い立てる。実のところ走った前の夜は2〜3時間しか寝ていない。そしてこの夜も徹夜で走ってきたのだが、家で一息いれていて大変なことに気がついた。 今日は失業保険受給の説明会で、そのための書類を札幌に忘れてきたのだった。「まぁ明日でいいや」では済まない話しなので、珊内到着約20分後、札幌へとんぼ返り。また2時間少々来た道を戻った。札幌に着いたのが、4時半前。さすがに疲れているだろう(自分で自分が疲れているのかどうかわからない)と思い、午前10時に札幌を出れば約束の時間に間に合うから、ちょっと寝てから出かけようとベッドに横になる。しかし昨夜ろくに寝てないのにまったく眠気がしない。だったら眠気の無いうちに走ろうと、5時頃また珊内に向けて車を走らせる。 薄明るく夜が明けかけた空の下札幌を出て、小樽・余市あたりでは朝日を受けて走る。早朝の積丹半島と海。なんて美しいのだろう。この時間に走った事は大正解だった。 結局 札幌・珊内を1往復半、6時間30分ほどのドライブだった。ただ同じところを行ったり来たりは、僕のおっちょこちょいさに毬音も笑っていた事だろうし退屈なドライブだったが、朝の光る海と僅かに色づいてきた山を観賞できたのは得した。 珊内では睡眠を取ることもなく、引越しの荷造りしたり音楽聴いたりで昼になって職安へ行く。 そこである事に意識がひかれた。失業被保険者の職業訓練でヘルパー2級資格取得のシステムがあるらしい。実は先日求人案内冊子を見ていると、緩和ケアー病棟、早く言えばホスピスでの補助の仕事が目に付いた。毬音の事を思い起こすと、そういった状況に置かれた人達に少しでも力添えできればいいなと考えた。その仕事の条件はヘルパー2級保持者だったのだ。
話はガラリと変わるが、巨人の監督に原が返り咲くようだが、毬音は隠れ巨人ファン。しかも原が大好きだったからさぞ喜んでいるだろう。
今夜の珊内はかなり冷え込んだ。ストーブをつける。
2005/10/07 (Fri) 0:26

 ●●●  父の命日
父の命日
今日10月5日は父・竹彦の命日。1980年に逝去したから竹彦は毬音の25年先輩になる。今は毬音の世話をしてくれているに違いない。  僕は9月28日から札幌での部屋探しでウィークリーマンションに滞在中。現在滞在している所の環境が結構気に入っていて、この近くで部屋を探したいと考えていたところ、今居るウィークリーマンションのすぐ裏に物件を見つけた。幾つか見て回った中でベストと思える物件だった。ただし、集合住宅とは住んでみないとわからないところがあるので、まだ喜ぶわけにはいかないが、まずまずスタートとしては快調だと言えるだろう。その部屋の鍵を今日受け取る予定。そして夜には一旦珊内に戻り、明日また札幌へ戻る。妙だが、今の僕の状況は珊内へも「戻る」であり、札幌へも「戻る」である。9日の毬音追悼ライブへ向けてのリハーサルも終え、本番で毬音に聴かせるのが楽しみだ。
まだしっかりと睡眠が取れない自分ではあるが、ひいていた風邪もよくなったようだし、渾身の音を出したい。
札幌での本格的な生活開始は10月下旬になるだろう。やはり珊内を離れるとなると、寂しい。そして、自分が都会での生活に馴染めるのか不安である。経験上、都会での孤独は身に染みてわかっているだけに、期待より不安が大きい。  もう孤独を楽しめない年齢になってしまっているから。 あとはどうなるのか僕にもわからないが、今まで生きてきたように、なるようにしかならない!その流れでやっていくしかない。出会いも運も毬音頼みの毬音任せだ。俺を導いてくれ!毬音よ。
2005/10/05 (Wed) 10:49

 ●●●  珊内の夕焼け
珊内の夕焼け
なんとか生きている。食欲は無いが、一日一食インスタント食品で食事をしている。しかし何を喰っても美味くない。一日4時間くらいだが、抗うつ剤で睡眠も取っている。タバコは相変わらず多い。ここのところ風邪気味なのか毎日頭痛がする。喉も痛い。だから風邪薬も飲む。怠惰な毎日を過ごしながらも事情は次へと移行している。 今日はハローワークへ失業保険の手続きに行く。明日からまた珊内を留守にして、札幌で部屋探し。我が家の荷造りはたいしてはかどっていないが、とにかく次へのステップを踏むしかない。ハローワークからの帰り、水平線に沈む夕陽を見ていると、泣けてきた。毬音も横で一緒に見ているのだろうか? 珊内に着いた時には夕日は沈んでしまっていた。また僻地の闇が僕を襲う時間がやってくる。
TVでホスピスを特集している。そしてまた泣いてしまう。
ここ3年ほど我が家で僕は敷布団に寝た事が無い。マリオンが一緒に居た時、マリオンの敷布団を敷くと僕の敷布団のスペースが無くなるので、僕は隙間に座布団を数枚敷いて寝ていた。毬音が居なくなった今でも僕は座布団を並べて寝ている。札幌に移ったら安いベッドを買おう。でなければ、札幌でも座布団で寝てしまうだろうから。
2005/09/26 (Mon) 18:39

 ●●●  1日タバコ4箱
1日タバコ4箱
ここ最近まったくダメ男になっている。毎日睡眠不足にもかかわらず、眠れない。今夜も気がつけばもう外は明るくなっている。昨日、精神科にかかってきた。そしてDrは1時間半も僕の診察に時間を割いてくれた。元々毬音の主治医だったそのDrは、毬音を通して今までの僕を見てきたわけで、よく理解してくれている。だから僕の診察予約を一番最後に入れて時間をたっぷり取れるように組んでくれているのだ。昨日の診察では、僕の診察の前の時間に担当していた入院患者さんが亡くなったそうで、Drも少し落ち込み気味であったため、診察と言うより、お互いの人生観や「命」に関しての考えを語り合うような形になった。Drも僕と似た感覚を持っていて、喜怒哀楽すべて含めて、経験する事は実になっていくという事を話した。ただ僕は進歩が良いものとは限らない、だから僕は経験して得ていく事を変化と捉えていると話すと、Drも医学に照らし合わせ「確かに医療が進歩して延命する患者さんが増えたところで、本当にそれが患者さんにとって良い事なのか疑問ですね」と言う。 そんな話を取り留めなく話しながら、毬音の話を絡めて行くと、僕はあることに気づいた。僕は眠れないのでなく、寝ないのだと。眠くても寝ようとしないのだった。これは今に始まった事ではない。子供の頃から寝る時間がもったいなく感じていた。寝る暇があったら何かをするか、何かを考えていたかった。しかし一旦寝てしまえば話は別で起きたくなくなる。  今現在も、理由はわからないが、寝ようとしないのが現状だと思う。多分、寝ている間毬音の事を考えられないのが寂しいのかもしれない。泣きながらでも毬音の事を考えていれば、激しい孤独感・喪失感はぬぐえないにしても、存在を感じようと必死になれる。しかし横で毬音が寝ていない今は、僕の睡眠中、僕は完全なる一人になってしまうからだろう。それが怖いのだ。 そんな思いで今夜も4箱目のタバコの封を切った。  引越しのための荷造り。ぜんぜんはかどらないが、食料箱の中を見ると、毬音は何を思っていたのか、こんなにいっぱいのカレー、シチュー、グラタンの素が現れた。そういえば、買い物の度にルーの素を買うのだが、その割にはテーブルに上らないと思っていた。何のために買いだめしていたのだろう。
僕はDrに最後に言った。「悲しい時は僕は泣きます。それしか出来ないですから」Drは言った「そうしてください。お互いに自然体でやっていきましょう」 だから今夜も泣かせてもらった。それは毬音恋しさもあり、僕自身の孤独・絶望感の涙でもある。
僕の昔からの口ぐせ「どーせ俺なんか・・・・・」 今まさにソレだ。カレー、シチュー、グラタン、どうしようとまた泣く。
2005/09/23 (Fri) 6:07

 ●●●  やっぱりダメだ!
連休とあって飛行機は混雑、千歳空港も列車も旅行者であふれていた。 毬音の実家に寄り毬音父に土産を渡し毬音の墓に参り、珊内に帰り着く。やっぱりつらい。つら過ぎるよ、ここは。どうして俺 こんなに弱っちいんだろ。今流れてる涙は毬音のためじゃない。一人残され誰とも共有できない孤独の恐怖に泣いている。そんな弱くて自己中心的な存在価値の無い男の涙なのです。だから皆さん僕を軽蔑して下さい。
もーういいかい? もーういいかい? まーだだよ! もういいだろ。後は絶望だけが伴侶として苦しむだけの生き様なら要らないや。 救われる道は閉ざされたから。 誰にも僕の声は聞こえず、離れ行く背ばかりが責めたてる。 「おまえは必要ない」と。
今夜こそ寝なければ。考えてみると、今日はほとんど食事らしい物は食べてない。カップ麺でも食うか。毬音と差し向かえで発泡酒飲みながら。
2005/09/17 (Sat) 22:19

 ●●●  2005年9月3回目の月命日
2005年9月3回目の月命日
9月16日で毬音が逝って3ヶ月。もう3ヶ月であり、まだ3ヶ月である。3ヶ月も毬音と会っていない、会話していない。そろそろ帰ってきて欲しいと願うが、叶わぬ願いだ。15日に僕は大阪から北九州に戻った。母の白内障の手術のためだった。それと、今回大村家の墓参りに行ってなかったので、墓参りにも行きたかった。母の手術の日は東京から弟が駆けつけていたので、弟に任せて僕は墓参りに行った。僕はうちの墓ですごい発見をしてしまった。
毬音の法名は毬音父の先祖の墓のある余市のお寺でつけてもらった「玄少」に毬音の「音」。そして毬音が逝去した4日前に亡くなった叔母の、千葉のお寺でつけてもらった法名にも「玄少」と名前の「忍」だったのだ。
だから本名(毬音の場合、本名ではなく毬音からではあるが)から取った字以外は同じということになる。なんという偶然!! 僕は周りのお墓の法名を見て回った。すると「玄少」の字の入った法名はいくつか見て取れたが、叔母と毬音の逝った日が近い上にまったく違う土地でつけられた法名が同じだったのは驚きだと思う。以前叔母の納骨の後に食事会で入ったすし屋の事をここで書いたが、すし屋で通された個室が「ROOM YOKO(毬音の本名ようこ)」だった事と関連づけて考えてみた。叔母と毬音はまったく面識は無いが、ずっと昔の前世でつながりがあったのかもしれないと。きっと浄土で一緒にいるのだろう。
今日の月命日はまた僕がカッパ巻を作った。スーパーで瓶うにが、なんと289円! 本物のうにがどのくらい入っているかはわからないが、うにのにおいはした。毬音はうにも好きだったので、うにと胡瓜で巻いた、ウニ・キュウリ巻にした。
母の術後は大丈夫そうだったので、今夜は博多のホテルで朝一番の札幌行きの飛行機に乗るために寝ないで居る。そろそろチェックアウトの準備をしなければ。
毬音よ。北海道に帰るぞ!
2005/09/17 (Sat) 6:10

 ●●●  頑張れ、吟チャン!
大阪での滞在も4日、本当は京都を歩くつもりでいたが、結局ほとんど外出もせず宿にこもる。今日は最後の一日だから意を決して京都へ出かけた。京都駅から四条大宮まで歩く。嵐山電鉄で嵐山へ向かう途中、物凄い雨になり、嵐山駅に着いても駅から出られない。今日は ある事でショックを受けていただけに、この雨で更に打撃をくらう。 せっかく毬音に嵐山を見せてやろうと思ったが、雨は止みそうにない。もうどうにでもしてくれ!と言う気分になる。若ければグレるくらいに、歳相応では自虐に走ってもいいだろうが、今回は毬音が支えになった。毬音のために暴走できないと。 もう人との関わりが面倒になってきた。 大阪最後の夜は毬音と安い発泡酒と眠剤で過ごす。
今日のタイトルは・・・・・かつてマリオンが僕によく言っていた言葉。きっと毬音は今そう言っているだろう。
2005/09/15 (Thu) 0:29

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