チャンカーはマリオン


 ●●●  アフターダークカフェ@札幌
アフターダークカフェ@札幌
もう日付が変わっているので昨日になるが、昼間は何故か毬音のサイトやチャンカーはマリオンの過去ログを見てしまい涙ボロボロでやるせない時間を過ごした。少し落ち着いて大通り公園まで散歩に出て、ベンチで涼風に吹かれながらこないだ買った本を読む。 夜はアフター・ダーク・カフェという店のジャムセッション。今日は結婚前のマリオンがよく通っていたブラウニーという店でのマリオンの知り合いだった女性Mさんと会うことになっていた。結婚前のマリオンの話しを聞かせてもらう。そこには僕の知らないマリオンも居た。マリオンにまつわる話しで、ある意味マリオンも知らなかったであろう話しも出て、それには毬音も耳を傾けていたに違いない。しかし大半は僕の毬音とのお惚気話しになってしまったのだった。まさしく骨まで愛してである。僕はセッションに参加しながら話しながら飲んだ。まずはビールを飲んだが、次第に毬音に何が飲みたいと尋ねてはカクテルを注文する。どうしても毬音がオムライスが食べたいと言うので、腹は減ってない僕だったがオムライスを注文、結局僕が食う羽目になり、これだから僕は太ってしまうのだと反省、Mさんにも笑われる。ジャムセッションも面白く叩けた。やっぱりドラムを叩けるのは嬉しい。  気付くとすでに地下鉄終電は出てしまい朝まで飲むと腹を決める。ジャムセッションは夜中2時過ぎまで続いた。飲んで話しているうちに外は明るくなってきた。店の閉店5時の少し前に店を出てコンビニでパンを買い大通り公園のベンチで大勢のカラス飛び交う中で朝日を浴びながらパンを食べながら地下鉄始発を待つ。初対面の女性と夜通し飲んだという不謹慎に思えるだろうが、実はそこには毬音も居たから3人で飲み明かしたのだった。午前6時になりMさんは地下鉄駅へ、僕は歩いて自分の部屋へ戻る。 今夜はMさんのおかげで、一人で辛い闇を過ごさずにすんだ。ありがとうMさん。
2005/07/24 (Sun) 7:27

 ●●●  札幌はつらいよ
札幌はつらいよ
やはり札幌は多くの想い出が残るので辛い。しかしこんなことではいけないと、あえて毬音逝去のホスピスへ行く。毬音が息を引き取った時立ち会っていたナースさんが、僕と同じく北九州の人だった事もあり北九州の僕の好物でもあるチロリアンを土産に持って行った。 まず前回と違ったのは、すんなりとホスピスまで歩けた。そして病院に入るにもホスピス棟までの階段も躊躇なく歩けた。今回も元毬音の病室の前を通ってみると、また名札の名前が変わっていた。いやその部屋だけでなく、毬音が居た時から1ヶ月と1週間、ほとんど見なれない名前の名札に変わっていたのだった。なんとも悲しい病棟だ。 ナースセンターには北九州出身のナースさんは居なかったが、北九州のお菓子ですと言って置き、すぐにホスピスを出た。駅までの道をトボトボと歩いていると、ちょっと派手目の若い女性がホスピス方向に歩いてきた。なんとその北九州出身のナースさんだった。白衣を着ていないと本当にその辺の若いギャル(死語かな?)なのだ。あちらも僕に気付いて立ち止まり話しをする。「あの時はお世話になりました。」「どうですか、落ち着かれましたか?」「いえ、まだちょっと辛いですが・・・北九州出身でしょ?何処です?」「小倉南区です」「今チロリアン置いてきました。食べてやってください」「えーっ本当ですか!懐かしい。ありがとうございます」 それから僕は大通りまで出て本屋でブライアン・ワイスの「前世からのメッセージ」という本を買って大通り公園をブラブラ歩いた。まっすぐウィークリーマンションまで歩くつもりだったが、ホスピスに入るに辛さがさほど無かった事で、僕はもう大丈夫なのだとの思いから毬音が手術・入院していた医大に立ち寄ってみた。しかし、しかしだ。ココはあまりにも毬音の記憶が濃すぎる。ホスピスでの毬音はすでに言葉も発せられず10日ほどしか居なかったわけだが、医大では元気な時から術後・回復・退院・通院・そして再発。思いの重さが違いすぎた。まったく院内には足を踏み入れられない。院外でも見る場所見る場所に毬音が居る。居たたまれなくなった。僕は生涯この病院に入れないかもしれない。ウィークリーマンションに戻っても心はザワザワして落ちつかず、何も手につかず、声を出して泣いてしまい、じっとしてられない。自分がこんなに弱い人間だったかとまた悲しくなる。次第に自虐的な気分が沸いてくる。これはマズイともう一人の自分が涙を止めて外出させようとして、なんとか外へ出た。今日は花火大会があるらしく人間の群れが目に付いた。街中を歩き色町の客引きを尻目に歩いた。どうにか気分が落ち着いてコンビニで買い物をして帰ってきた。毬音が好きだった牛乳プリンを買って毬音瓶に供える。で、ふと気付くと、写真にあるようにプリンの蓋に「ちゅーしてくれる?」と書いてある。いままで何度もこのプリンを買ってはいたが、初めて気がついた。これは毬音の言葉だ!「もちろん」と言いながら僕は毬音瓶に何度も何度もキスをした。キスをしながらまた涙が止まらなくなる。 これからもこんな夜を過ごさなければならないのか。
2005/07/22 (Fri) 23:30

 ●●●  函館
函館
いよいよ毬音追悼の旅も終わる。今日は木曜。20:10に一人で過ごさないで済むように、その時間は列車移動に当たるようスケジュールを調整、函館17:55発の特急を予約した。これなら札幌着が21:28。診断書の死亡時刻の1分後の到着になる。 雨上がりの函館をちょっと歩く。函館は毬音との思いではそれほど多くない。2年前カッパ旅芸人おいかどいちろうと一緒に日帰りしただけだ。考えてみると、毬音とは北海道内を旅した事がほとんど無く、唯一遠出した道内の町が函館。しかし泊まらず日帰りだったから歩いた範囲もごくごく狭い。だったら新たに毬音に函館を見せるつもりでちょっと歩いた。 北海道にしてはちょっと湿気が多く蒸し暑く感じるが風は冷たさを含んで気持ちよい。毬音と歩いた場所ではしばらくベンチに腰掛け海を眺めた。毬音はしっかり背中のデイバックに入っている。しかしこのデイバック、九州や大阪や東京で僕の背中で汗まみれになり、汗臭さをかもし出し、薄汚れている。こんな中に入れるのも可哀想に思えてきた。札幌に帰ったらバックを洗濯しよう。
札幌では10日ほど一人で過ごす。これも心配だが、やはり珊内に戻ることはかなり緊張を感じる。はたして珊内で暮らしていけるだろうか。いや、毬音を安心させるためには暮らすしかない。 もし僕が絶えられないと感じた時は、きっと毬音も珊内が辛いのだろうから、その時は珊内を出よう。とにかくこれ以上現実から逃げられない。
2005/07/21 (Thu) 14:32

 ●●●  法名、再度訂正
野辺地駅で毬音父からのメール。 至に少ではなく、玄に少 だとの事でした。
今夜は雨の函館。友人の経営するペンションにて厄介になってます。
2005/07/20 (Wed) 23:35

 ●●●  イタコ
昨夜寝つけなかったわりに早く起きた。やはり毬音に会える喜びからの興奮だろう。ホテルのサービス朝食を食べに下りる。サービスだからショボいと思っていたら、なかなか大したバイキングだった。 逸る気持ちを押さえながら恐山へレンタカーを走らせる。昨日下見をしただけありスムーズに到着。しかし駐車場には結構な数の車が止まっていた。僕は入場料を払い一目散にイタコブースへ行く。まだ8時半前だが、かなりの人が並んでいた。イタコさんは計9人。イタコさんの数は昨日来た時に情報を仕入れていて、昨夜は9人全てのイタコに視てもらおうかと考えていたが、人の噂で年輩のイタコは方言がきつく、話しを聞いても理解できない事が多いらしい。で、2人居た若いイタコさんの列が短い方に並んだ。とにかく若い二人の前に並んぶ列は他に比べ極端に長いが、せっかく聞いても無駄になるのは嫌なので待つ覚悟を決めた。待つ事1時間、2時間、毬音と話せる事を思えば何という事は無い。僕の前には静岡・東京から来た人、後ろは四国か九州から来た人が並ぶ。 僕が許せなかったのは、口寄せの最中に見物している他人が横から耳を澄まして聞いてい
たりビデオを撮ったり写真を撮っている事だった。人のプライバシーに堂々と首を突っ込む恥じ知らずな輩がなんと多いこと。頭が悪すぎる。そんなこんなで、結局僕は5時間待って順番がまわって来た。僕は開口一番「まだ四拾九日になってないんですが」と言うと、イタコさんは「あぁ無理です」。僕の5時間棒立ちでドキドキソワソワして待った苦労が一瞬にして終わる。篠栗の住職は魂を降ろせたが、イタコさんは仏しか降ろせなかったのだ。気付けばそろそろ野辺地へ向けてレンタカーを走らせる時間だった。なので恐山は何処も見ないまま立ち去るしかなかった。もし口寄せを受けていたら列車に間に合わなかっただろう。残念は残念ではあるが、まぁ又毬音が仏になったら来ればいいか。 今 野辺地駅で毬音と「間抜けな話しだったなぁ」と笑いながら函館行きの列車を待っている。
2005/07/20 (Wed) 16:29

 ●●●  恐山
恐山
上野から昼の新幹線で八戸へ。これは考えてみるとすごい。小倉ー大阪ー東京ー八戸と新幹線を制覇したのだ。そんなこたーどうでもいいことであるが、夕方4時半頃下北半島むつ市下北駅に到着。予めネットで予約していたホテルへ行く。開業10周年とかで安く泊まれるた。結構いい部屋だがジャスト6千円だ。ただし、場所柄我パソコンのPHSモバイルの接続が不安定。
ここまで来たのは明日から始まる恐山の大祭のため。大祭にはイタコさんが集まるらしく、毬音ともう一度話しがしたかったからなのだ。ホテルの目の前にレンタカー屋があったのでレンタカーを借りた。車の運転は5月始め毬音と大阪へ治療のため出かけて以来してない。毬音が逝ってからも友人の車を運転しようとしても「今のあんたは何処に突っ込むがわからないから危ない。運転はダメ俺に任せろ」と運転させてもらえなかった。確かにあの時の僕は急に悲しみが襲い自虐的行為に出てもおかしくなかった。今でもそんな不安はあったが、下北駅からバスで40分の恐山へは やはりレンタカーが便利と思い借りたのだった。 明朝から恐山に行くつもりだったが、ならし運転と道の下調べと恐山まで走ってみた。そもそもマイカーを持つ身、ペーパードライバーではないわけで、精神的にもあの頃よりは落ち着いているわけで問題なく運転できた。今のレンタカーはカーナビが付いていて結構楽だった。恐山での口寄せは明日の予定なのだが、車を走らせながら、僕の気分はドキドキワクワクしているのに気付く。それは何故か。明日毬音に会えるという期待に嬉しくて嬉しくて嬉しくてしかたなかったのだ。遠足前日の子供のように、早く明日になればいいのにとか、いっそう恐山の駐車場に泊まるかなどと考えめぐらす。毬音と出会って間もない頃のデート前の気分に近いものを感じている。そんな気分を押さえながら、ホテル近くのスーパーでカッパ巻が入った助六寿司があったので毬音に買ってきた。 明日レンタカーは恐山からそのまま野辺地まで行き乗り捨てで函館に向かう予定。 早く毬音と話ししたい!!!
毬音父からメールが届く。 毬音の法名の金に少と書き「みょう」と読む字、僕も「家が貧しかったから金に少ないなのかな、あの世でも貧乏するかもしれんなぁ」とは思っていたのだが、実は字が違っていて至に少と書く字らしい。だがもう姪っ子に書き換えてもらうには遅いので、もう一枚買っていた短冊に僕の字で書いてみた・・・・・僕の字じゃ成仏できそうにない。後日なんとか対処法を考えよう。
あぁあぁあぁ明日毬音と話せるぞ。 早く明日にならないかなぁ。これじゃ今夜も眠れそうにないぞ。
2005/07/19 (Tue) 19:58

 ●●●  毬音の法名
毬音の法名
相変わらずの睡眠不足のまま午前中のバスでアクアラインを渡り千葉の親戚の家を目指す。千葉は君津という片田舎なのだが、行くのは30年ぶり近い。町はまったく見違えていた。本当なら毬音に「ここは俺が子供の頃暮らしていた町だぞ。ここは何処そこ、ここは何処そこ」と案内をしたいところだが、僕にとってもまったく見知らぬ町に近いくらい変わっていたので、毬音と共に初めて訪れた町のように見まわした。 親戚の家に行く用向きは書道4段の姪っ子に毬音の法名を書いてもらうためだ。駅前で30年ぶりの中学の同級生に電話する。懐かしさと驚きですぐに迎えに来てくれて昼飯をおごってくれた。そして親戚の家へ行き毬音の法名を書いてもらう。この毬音の法名は毬音父が余市のお寺でつけてもらったもので、本来なら本名から一字取るところを毬音の「音」の字を入れてくださった。これでいつまでもどこまでも毬音は音に包まれた世界に居れるだろう。千葉の訪問はわずか4時間半で東京に後戻る。帰りのバスの中で気付いたのだが、いままでずっとしていた左手の数珠が無くなっている。何処に落としたのか忘れたのか、確かに往きには左手にあったはず、、、と思う。なんせ睡眠不足の頭なので不確かなのだ。ホテルに戻って確認が必要だ。
東京に帰りつきすぐに神田駅で待ち合わせ。今日の集まりは6月27日に上野で北斗星に乗る前に会った同級生との再会。6月27日は列車の時間の関係で会えたのは30分程度で何も話しが出来なかったことで今回の再会となった。居酒屋で4人、昔話に花が咲き馬鹿みたいに笑った。もちろん毬音に添え膳をして。今まで何回も毬音を囲んで会を持ったが必ず涙が出てしまった。しかし今回初めて大笑いの会になった。40半ばを過ぎたオッサン・オバサンが子供のように馬鹿笑いして酔っ払う。決して毬音を忘れたわけではない、毬音に僕や皆の中学時代の話しを面白おかしく聞かせたのだった。でもメソメソしないで飲んでる僕の姿に毬音はきっと安心したのではないだろうか。皆それぞれに明日は仕事があるのに乗り継ぎの最終電車に乗り遅れてまでも付き合ってくれた。ありがとう。心底楽しい時間を過ごせた。ホテルに戻って数珠を探すが、無い。やはり無くしたか。それはある意味毬音はまたひとつ高い段階へ進んだのかもしれない。 今テレビのBS放送で毬音の好きな映画ブルースブラザースをやっている。毬音と映画を見ながら僕はコインランドリーで洗濯。乾燥機が止まるまで後1時間半。やっぱ今夜も寝れないのかな。
2005/07/19 (Tue) 2:37

 ●●●  毬音月命日後日会@池袋
毬音月命日後日会@池袋
昨夜飲んで新大阪のウィークリーマンションに帰って、また1リットル近くビールを飲んで それでも寝つけず。眠りについたのは5時過ぎだったが、今朝はチェックアウトということもあり9時前に起きた。昼過ぎの新幹線で東京へ向かう。北九州→大阪→東京と次第に北海道に近づく事で言い知れない緊張を覚える。なんだこれは? やはり毬音の思いでが多い北海道を恐れているのだろうか。しかし僕は気候的に北海道以外では暮らせない身体になっているのであった。 東京到着直後、東京は大阪より暑さは楽だと感じた。ホテルにチェックインしてすぐシャワーを浴びる。その時気付いたが、僕の脚がひどく浮腫んでいる。京都で歩きすぎたのか、はたまた毎晩飲み過ぎなのか。浮腫んだ脚を見ていると毬音のリンパ浮腫を思い出す。毬音が逝って以来、僕はよく飲むのだが、酒太りしてきた。 なんとなく毬音の脚の浮腫みと薬太りが憑依してしまったかのように思えた。それはそれで僕の中で毬音が生きていると思えば了解の範囲内だ。 今夜は東京でユースの仲間と飲む。今回は池袋のジャズ生演奏のあるバカボンドという店。ジャズライブ好きの毬音にはうってつけと思えた。残念ながらピアノと歌のデュオライブだったが、我々が飲んで出来あがった頃、店にスネアドラムひとつだけあるとのことで、僕が飛び入りで叩いた。スティックではなくブラシだったので思うような派手な事は出来なかったが、僕が叩くすぐ横に友人が毬音瓶を持ってきてくれたので、毬音はかぶりつきの特等席で僕の音を聴けたのであり、聴かせてあげられたのだった。今日はビールだけでなく、カシスゾーダ、カンパリソーダ、カルアミルクも飲ませた(結局僕が飲むのであるが)前回東京・新宿での毬音追悼会では、僕は情けないくらいに泣きが入ったが、今回は・・・・・ちょっとだけ涙を流してしまった。
昨日 大阪での集まりである人に教えてもらった話しがある。悲しみの次に怒り、その次に諦め、そして包容が来る。これは大切な人・物を失った人間の精神の働きらしい。 怒りの矛先は何処へ向くのだろうか? 大体わかっているのだけれど。。。。
今夜の宿はビジネス街神田のホテルに2泊。土日祭日は値段が下がる。平日は¥9345のシングルルームが、¥6195。大変お徳なのだ。その部屋の枕元で連日のイベントに疲れた毬音瓶が寝ている。しかし僕はまた寝つけない。明日(今日)はバスでアクアラインを渡り千葉の親戚の家へ行く。アクアラインを始めて渡る。今夜も眠れそうにない。困った。
2005/07/18 (Mon) 1:58

 ●●●  毬音月命日@大阪
毬音月命日@大阪
毬音が逝って1ヶ月。16日は月命日。もう1ヶ月、まだ1ヶ月。悲しみは相変わらずだが、あまりメソメソしていると毬音が心配するだろうが、まだまだ女々しく居る。今日はふと思い立って再び京都へ行った。京都で毬音と歩いた場所はまだあったのだ。それは三十三間堂と清水寺。今日も振りだしは京都駅。三十三間堂はそれほど離れていないので楽に歩いた。去年1月はちょうど弓矢の行事で拝観料が無料だったが、今日は600円払って入る。毬音は「私は寺社仏閣には興味が無いようだ」と言っていたが、多分今ごろは興味云々どころでは無く、その世界に入ってしまったのだ。冥土世界を仏教的に表した仏像郡。毬音は今それを体現していることだろう。「あっ、この世界は以前見た覚えがある」と呟いていると思う。 そこから清水寺へ歩く。清水では昔の女友達と会う。彼女は結婚間もなく旦那さんを交通事故で亡くした経験を持つ。そこで悲しみを乗り越える技を聞く。しかしそんな技なんてあるわけが無く、彼女が曰く「故人への思いが悲しいのでなく懐かしく思い出せる時が来る。それはいつとは言えないが必ず来る。今は辛くて忘れたいと思うだろうが、忘れる必要は無い、その時まで大事にすればいいんだ」どんな偉い坊さんの説教よりありがたかった。言ってみれば毬音と共に生きればいいのだ。 そんな話しをしていると時間は夕方5時を回っていた。実は大阪でユース関係の友人が毬音の月命日のために集まってくれていたのだが、僕は時間を6時と勘違いしていた。携帯が鳴る。「今何処におるん?」「清水。京都。」「エーーーッ」 僕は焦ってタクシーで京都駅へ行き新幹線で大阪へ戻る。僕と毬音のために集まってくれた会に結局1時間半遅刻した。前回東京で集まってくれた仲間同様、今回も毬音に会ったことの無い人も来てくれて悼んでくれた。治療で大阪滞在中に本当にお世話になった人も来てくれた。その彼女にしてみれば毬音の逝去は本当に辛い現実だったと思うが今日来てくれた。皆で飲み、そしてお決まりのようにカラオケへ。毬音喜ぶ! 彼等は僕の仲間であり毬音の仲間でもあるのだ。僕と毬音は本当にいい仲間・友人を持っていると感謝。毬音よ、初月命日、楽しんでくれたか? これは毬音あっての集まりなんだ。毬音が主役の集まりだったんだぞ。 実は明日は月命日後日法要として東京で飲むのだ。毬音引っ張りだこ。今でも愛してる、ずっと愛してるからな。忘れるなよ、毬音。
2005/07/17 (Sun) 1:18

 ●●●  京都・南禅寺
京都・南禅寺
昨夜遅く大阪の友人が訪ねて来てくれた。夜中3時過ぎまでファミリーレストランで懐かしい話やらで時間を過ごし、僕の苦しみも和らいだ。彼等にはそれぞれ仕事があり睡眠不足で今日の仕事は大変だったであろう。屁たれの僕に付き合ってくれた事に感謝。 その後僕は部屋に戻っても眠れなかった。今日は京都に行き、去年1月里帰りの際に毬音に「まだ歩くの〜!!だまされた〜」と文句を言われながらも一緒に歩いた南禅寺から哲学の道を通って銀閣寺への道程を辿るつもりであったので、結局寝ないまま朝の電車で京都へ向かう。
僕は京都駅から歩き始めた。祇園まつりの鉾を探しながらくねくねと歩いたが見つけられない。祇園まつりのお囃子は結構好きなのだが、残念だった。 昔 大阪に住んでいた頃、徹夜明けでよく京都を歩き回ったものだが、流石にこの歳になると徹夜明けでしかも炎天下を歩き回るのはキツイ。だが、これは毬音の供養のため追悼のためと歩く。 南禅寺に辿りついた時には僕の脚はパンパンになっていた。しかしココからがスタートと一服入れて仕切りなおす。毬音とくぐった山門を見上げ話しかける。「ここ覚えてるか?あの時は冬で小雨模様だったが、今は緑いっぱいでこんなに蝉が鳴いてるぞ。」 哲学の道に出て疎水に沿って歩く。暑さのせいか祇園まつりのせいか観光客はまばら。ゆっくりしっかりと噛締めながら歩く。すると毬音の「銀閣寺はまだぁ〜」の声がする。僕は「いいじゃん。今日は俺が背負って歩いてるんだからのんびり景色を楽しめよ」すると、「寝てないんだから無理しないでね」と言ってる気がした。去年は銀閣寺からバスで宿に戻ったが、僕は更に歩いた。脚の疲れが腰まできたが、供養だと思って歩いた。京都を詳しい人であればだいたいの距離がわかるだろうが、百万遍・出町柳まで歩いた。時間にして京都駅を出て出町柳まで3時間半歩き続けた。着ている服ズボンはグッショリだ。そこから京阪電車で大阪に戻る。大阪は淀屋橋近く毬音の免疫療法の点滴を受けていたクリニックに挨拶に行く。
昨日ネットで免疫療法のサイトを見ていると、なんてっこった!札幌で2軒免疫療法を受けられる病院が増えていた。もっと早く・・・。 毬音が逝った事をクリニックで話す。毬音が腎不全をおこしたのは、札幌で尿管ステント交換にミスがあった気がしてならない。それは毬音も自ら訴えていた事なのだが、その点についても話す。しかし全てが遅すぎる話なのだ。とにかく北海道の医療は絶対におかしい。 もともと医者に対する不信を持っていた僕ではあるが、益々深まった。 もう時間的に毬音の月命日に入った。もう1ヶ月経ったんだ。”チャンカーはマリオン”で僕はマリオンを追いながら書き続けて来た事で毬音は逝ってしまったと認識しているのだが、今日 ふと思った。 僕は嫁さん・YOKOの死は受け入れられていないような気がする。これは珊内に戻ってから試練となるのだろう。そう考えるとまた悲しみが込み上げてくる。
2005/07/16 (Sat) 0:09

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