【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。
HCO3- + H+ → CO2 ↑+ H2O (生存確認用にお使いください)


興醒めにんげん
20200904
今日クレしんの日か!



人と人が関わるということはその時点でおおよそ契約であると思った方が良い、ということを学んだ。コミュニケーションとはすなわちそういうもので、それが出来ないというのはとんだあんぽんたんなのだ。
で、やっぱり私はそれが好きじゃない、その、読み合い、促し合い。とても傷付く。辛い。でも面白い、好き。
あれ?
そっか、うーん。でも、私はもっと本当の話がしたいのに。私たちの関係のことに興味が、ある。
あれ?
そっか、なんにでも興味があるのね。困ったな。
興味があるだけでつまんないと思ってるよ。つまんないと思ってるのに興味があるの?うん、だって私たちの関係もわたしとあなたの間にしか起こらないし、それはあなたがあなたであるという所からくるでしょう?
きみはキムズカシイいのかい?オオラカなのかい?
よくわかんない、本当は大胆になりたいよ。
そっか、頑張ってね。
うん、もっと頑張りたいと思えるようになれるように頑張っていくね。

久しぶりに考えごとを日記でやってるな。この前のは考えたことだったから。
昨日、久しぶりに、人と知り合おうと言う会話をしたんだけど、三人で。
なんかよくわかんないけど、なんかちょっと吹っ切れた部分がある。
昔は毎回そうだったんだけど、すごく後悔して反省して、自己嫌悪みたいな魔物に久しぶりに再会できて、私ってこういう風に私にとって目に余る奴だったし、人と話すってこんな感じだったな。と思ったら、色々とぐずぐす停滞させてたことのことこそのとらぬ狸の皮算用って感じでさ。いろんなことが見えなくなってたことに気付いたら、もともと最低なんだったのに、いったい何にケチがつくのを恐れてビビって尻込みしてんだよ、って在り来たりに自分を罵れて。在り来たりなんだってことを思い出したし、そんなことを気にしてることことの滑稽さこそ私らしくて懐かしくて、興醒めだった!
私はやっぱり私が恥ずかしい、この一言一言が身の毛もよだつ。だからこそ、漫画があってよかった。あそこにはこの私は介入できない。あ、もうきをうしないそう、ねむります
2018/04/11



他人を求めている
他者が居ないと生きていけないということを日々考えるんだけど、それが現実的に物理的に仕組み的に当たり前であることは置いておいて、目の前の他者に対応するということが限定的に全世界になってしまうということ。で、その限定的な全世界の拡張を防ぐためには、複数の他人の存在が必要なんだけど、それはそれとして私は人間には興味が有るんだけど、コミュニケーションには興味がないのだった。複数のタイプの他者と関係を持続するスキルがないという話ですかね。私は私を面白いと思うけど、私の面白さを表現したいという欲求はそこまでない、ということに似ているかもしれない。私にとって人と言うことはどこまでも別々のものなんだろうか?
正しいとか間違っているとか傷付くとか傷付かないとか好きとか嫌いとかいうのは前提が有る定義の上にあると思っている。だから私たちは「学ぶ」んだと思う。生き生きと生きるということは、貪欲に学ぶという事だと思う。あたりまえのことではない、当たり前の正義も当たり前の感情も、あるように見えるかもしれないけれど、それはやっぱり培われてきたものの成果であるのだ。だからこそ、変わろうとしているのであって。悲しいから可哀想だからやめなくてはいけない、というのは、楽しいからやっていいと言っていることに同等に刀を抜いているように見える。その上で、弱い方が偉いのか強い方が偉いのかを決めるために闘っているなら、決着がつくとは思えない。自分がどの立場にあるのかを見定めるんじゃなくて、なにが起きているのか知りたい。それがどんな意味を持つのか考えたい。優しくなることでは救われない、優しいという理由でなにかを許されてはいけない。よく学び、よく考えることだけが私たちを初めて対等にしてくれるんじゃないのか?わからない、わからないなあ、悲しい。学ばせてもらえなかったこと、学び方を知らないということがただただ悲しい。自分にしっくりくる言い訳を見つけることで生きて生きたくなんてないのに。書き手と読み手がいるなんて変だ。

また学ぶという言葉の意味は話の途中で変わってしまった気がする。高尚なことじゃない、もっとあたりまえのこと。みなみなさまが自然になにかを学んで環境に則っているという話。楽しいというのも、私は学んで知った概念だった。知ったというか増えた、拡張された。人から好かれたら嬉しいみたいな話だって当たり前のことのようで当たり前とは思えない。生きるということは学ぶということを避けられない、勉強しない人達は勉強しないなりにどのようにイカれていくのか勉強してる。その集団には暗黙の了解がある。自分がなじめる場所に偶然居られることもあるけど、そこで歓迎されていることに自分が同意しているというのはあんまり避けられない。いかに楽しむか考えるというのは、ルールを把握してるからできるのだ、応用だから。居場所や価値観や思想そのものではなく、それを選んだ後に何をするかがその人が誰であるかを初めて決めるように見えてる。ってことはいか学ぶかということが私なのである。
でも、それでも、だからこそ、私たちは自分が学んだ場所が好きであるということが怖いし、窮屈だなと思うし。得難い事でもある。

ぱっと思いつくことが自分の価値を決めると思うのは勘違いだろうと思っている。人に優しくしたいと思えるということは別に偉くない。それは優しい以上でも以下でもない。行動にうつせるから偉いんだし。
それでも、自分のエゴより人を嬉しがらせたくて、言ったことの責任をとれるように努力して、自分の役目を全うしようと真摯に生活してる人を、偉いって思う。そりゃ、まず人間が優しくてその上で、それが偉い事の典型だと学んでそれを実行してる人なんだから偉いんだ。そんでやっぱり、偉い人が優しい事を好ましいと思う。やっぱり優しいって優しいというだけで良い事なんだ。そういうことがとっても難しいなあ、変だなあって思うのだった。
みんながそう思うわけじゃないのに、それでもみんな善良で誠実で努力家であることは正しいことの典型であるという共通認識はあるよね。不思議。なぜ理想があるのか理解できない。できる。この公式で解くということが分かっていればこの公式がどう機能しているのかは問題ではないので。

というところで、私は最近、優しくてずるい人と、エゴイスティックな偉い人の組み合わせにハマってるんですよね。

私たちはもっとも憎むべき存在に惹かれてやまない瞬間があるし、なんならその相手を愛してしまう時がある。それは矛盾していないし、どちらの感情もそれによって否定されない。だからこそ矛盾する。
なぜか正しい事の典型を願ってしまう、それはとても清々しくて爽やかだ、明快だ。つまり単純なことは快感だ。
めんどくさいこと、わからないこと、解決しない事、それに真剣に取り組む事の徒労感。
現実に今起こっている悲劇を拒否し変えたいと思うことと、その悲劇を甘美に思うことはむしろ、方法としての反応が刺激するまっとうさであると思う。そして、その甘美さを否定するときに現実に起こっていること自体を否定してしまう危機の中に居る。
悲劇と言うのは甘美なんだということ、つらい、くるしい、くるおしい、というのが甘美なんだし、つまり、つらいことがつらいだけでは耐えられない。
いよいよ凍死するという時、身体が熱を感じるように。あるものとないものは表裏一体だから。
残酷なことを、ないことにしてはいけないっていう話をよくされる、そうすると、ないということに一生苛まれるから。
こんなことを思って自分は残酷な人間だ、変態なんじゃないかと思うようなこと、そういうことに蓋をしている。考えない事でしか対処することが出来ない。否定することでしか間違いに対処できない。
残酷なことを好むことが残酷じゃないということにはならない、でも残酷だから優しくなれないということはない。どう学ぶか。どのようにその残酷さを行使するか。
矛盾することは矛盾しない、矛盾することこそが矛盾しない。
私が誰であるかというのはない、他者にどうあれるかということが、残っていく。残るものがすべてではない。証明されるということ、その中にしか自分を探すことが出来ない。私の、私がね。他人に確認される私だけが生きている。私が知っている私は私しか知らない停止した凍結した時間の中にいるものを見ている私。私が私としかいない時、時間が止まっている。生きていると思えない。ただ豊かな止まった世界。そこにずっと居たい、それは死に思える。いつでも死ねると思える。他人を求めている。時間が進んでいく世界で、どうにか食らいついて生きたいというふうな思いたい。気持ちが足りない。全然足りないので、他者に晒されたい。
この、そうしたいと特に思わない、欲求がないということの、エネルギーのなさ。無関心無感動から、自由になりたい。無知である、無自覚であるということから解放されたい。ないというのはなんて強いんだろう。
あるということはすごく難しいことなのに、粗末に扱われている。あるというのは鬱陶しい。煩わしい。不自由だ。
自由である事の方が不自由なのにな。なんだっけ。
存在したって全然面白くなんてないし意味だってないんだろうけど、存在しない事よりはマシ?なんかどんどん面白くない事を言ってるな。考え切れてない話はなんども使い古された慣用句に行きついてしまう。ありきたりな真理で言えてしまうことの考えなしの切実さ。やっぱり考えていった事よりよっぽど切実な気がする。
もはや何の話か分からないけど、原稿が終わらない。困ってます。終わらないというか、出来ない。面白さにたどり着けない。まだ描くに及ばない、値しない。でもそんなことは言ってられない。待ってくれない、自分の実力より低いチャンスなんてチャンスじゃない。チャンスを乗り越えないと次はない。才能のなさ?しゃらくさいな!才能のなさを乗り越えられない才能なんて才能じゃないだろ!
でも寝る。
2018/04/11


回顧
てりちよが喋ってくれて嬉しい、てりちよとお話しした時、やっぱりてりちよが好きだって日記を書いたけど更新しなかったような

ーーー
0706

いま生まれなおそうとしてる
吉田大八監督のパーマネント野ばらと腑抜けども、悲しみの愛を見せろ凄く良かった、橋口亮輔監督も好き、多分スルーしてた(理解力がなかった)だけで好きな監督っていっぱいいるんだろうな?と思う。いっぱいはいないか。とにかく判断力がある状態で確認したものが少ない。園子温監督の映画ちゃんと見たことない(冷たい熱帯魚の冒頭で飽きた)から見た方がいいな〜。是枝監督はとにかく頭が良い?(もっと違ういい方がある、物語にしない、みたいな…)から見てて本当に参考?勉強になる?みたいな感覚がある。実際そういう見方で見てないけど。クレしんのアニメとかもすげ〜勉強になるな〜!(実際は、なりそうだな〜!かな)って見ると思う。頭が良くないと皮肉は描けない。それを文句や攻撃と感じさせてるのは熟慮が足りないから、あと面白くなってないからこれは笑いのセンスか、笑いのセンスこそ頭の良さって思うけど厳密にはちがうのかな。パッションみたいな皮肉もあると思うけど、混乱してきたからそういうことよく見るねの話にとどめておいてる意味でとって…。何の話したかったんだっけ?あ、なんか久しぶりに映画見たくなってきたな、物語に触れたい。ゾワゾワしたい、人間の限りある可能性のはしっこを掴みたい。出来ることをやろうなんて思うことから解放される、もっとなんでも出来る。上手く言えない、「みくびらない」に還る!みたいなこと、私が本当にやらなくてはいけない事を思い出す。ひらける。

よしのさんにもてりちよにも「わかりやすくなった」って表現して貰ったの嬉しかった、分かりやすくなったことが嬉しいのとは多分違うんだけどわかんないなんか嬉しかった!てりちよには、更にもともとわかりやすくしてくれていたけど、と続けてもらって、あ。てりちよだ!って思った。よしのさんには5月に会った時。プルさんによしのさんにそう言って貰ったって言ったときは全然それが通じなくて?面白かった。
私がわかりやすくなったのは所謂成長したって事だと思う。小学生から中学生になったからだよ。小学生の私はすべてを知っていたから、今の私は無能だけどそれが成長で、次は有能になるために頑張るよ。40歳くらいになったら私有能なんじゃないかな?って今思ってる。遅いかな?そもそもなれないかな?別になれなくても良いかあ。

去年は歳を取るのがちょっと怖かった、死のにおいを感じたけど、今年は感じない。歳を取っても不自由にならない、させないように出来る。
ーーー

これだ、去年のわたし。いつも前向きででかいことばっかり言ってるな。
好きだって話は色んな人に話しただけで書いてはなかったかな、色んな人に話した気がする、話題が出た時に。てりちよは適温の水。温くなく冷たい、冷たすぎない、心地よい冷たさの水、なにをしてしまってもどこか清々しく静謐な空虚を感じさせて、悲しいという気持ちの悲しくないところに眉をしかめて座っている感じがする。悲しい気持ちというのが悲しくないということをそっと眺めている押し付けがましさのない通り過ぎていくだけの智。こういう頭の良さに憧れると思う、失うということは過不足がない、みたいな感じ。
できればずっと感じていたい。
2018/03/09


覚える、忘れる、覚えない、忘れない。
そのとき自分がどういう態度をとったか、ではなくて、どう思ったのか、ということをやっぱり覚えているということが
傷つけた方は覚えてない、という言説に繋がる気がする。
思ったことが自分をつくってしまう、それが外面とちぐはぐになると、摩擦が起こる。
絶対的なこと、感覚の追究みたいなこと。
相対的なこと、見る、読む、バランスを取る。こっちの方がデザインっぽいのかな。イケてるというのはこっちにある。

差別用語についても考えてたけど、普通のことしか思ってない。漫画のせいにさせることを許すというのが見下げた根性だなみたいなこと、とにかく人間というのはどれだけ浅はかで愚かで弱く考える力がないという前提でものを考えられてるのかと思ってドキドキする。これは悪いからダメって最初から守るべき答えを限定して教えようとしてくる、これが教育なのか?複雑にしたら分からなくなるって本気で思ってんの?馬鹿で影響されやすい理解力のない人が世の中には居るから合わせないと可哀想だっての?考えさせるだけの考えを持てないってこと?教えられる人がいないってこと?やる前から予防線を張る、裁判で勝てるやり方とか。
誰もやらないなら、間違いではない方、危険のない方、暴力性のない方、創造性のない方、なにも起こらない方、なにもやらなくていい方。
うーん、うーん、曖昧。もうちょっと考えないとなにも言えない。
2018/02/11


期待の活力
これから出来るようになりたいけどまだ出来ないことを私たちは黙っている。自分を本当はこういう風に説明したいけど、やり方がわからないから、はじめから言わない。
能力が追い付けば描きたい物語がある。
本人だけが知ることのできうる、可能性、将来性
才能とはずれたところにある、期待の源泉。
黙っていることが沢山あります。わたしもあなたも。
いま実体のある、今の自分にがんじがらめになっています。未来にも過去にも飛び越えられない。

自分を過信したくないであろう尊敬する好きな人達の、抑圧する知性的な沈黙に対して、手の届かない期待を空気に含ませる。これは酸化したりしない、漂い続ける。
それと勘違いしてほしくはないけど、可能性に失望していると言ってしまおう。
可能性なんてそんなことはどうでもい、あなたが信じることを私も信じたい、それを知るすべがない。お互いに相手に渡せる実体を持たないから
私は私が衝撃と共に消沈させた火を、失望を、絶対に翻すよ。という表明。
2018/02/10


占いへの嫌悪と期待
占いというもの、腹が立つなあと思う。
しっくりくる、こない、マユツバ、とかバカみたい、プラシーボとか、おみくじみたいなもん、よりどころ、ヒント、自分を知るため、とかまあそれぞれ色々ありつつ。ひとつの信仰や学門として面白いし、培われてきたものに新たに参入して芽吹き続けるものでもある。
自分が個人的なものとしてやらなきゃいけないことを大衆的な神秘と真理にされてしまうという、ヘンテコさが気がかりなんだ。
自分を証明することの他力本願が基本的につまんないのかな、私がそれを大事におもうからそうじゃないということが悲しいんだろうな。
もっと書くかと思ったら、そうでもなかった。
占いはわたしを実現しないし、証明も紹介もしない、そんなことは分かってることだから、そう分かっていることを説明したりもしない。

わたしは筋を通してこれをやってる、それが気に食わなければ離れればいい。という個人主義の声がでかいなあと思う。それは大声で言わないが空気に蔓延する、馬鹿みたいに古くさい共倒れの理屈にたいする警笛としての節が勇敢さを付与するんだろうと思う。わたしにはどっちかを選べないが、結局問われて前者の方がマシだと答えてしまうだろう。プレッシャーによる抑圧は手錠を連想させる。
その上で、選ぶ責任と苦痛から逃げない上で、それでもどちらかを選ぶこと自体が心許ないんだという話がしたい。そういう力がほしい。
2018/02/10


入金しました
3回ぐらい日記書きたくなって、アッって、かんじの。
実際書こうとしたのは、2回か、じゃあ書きたくなったのはもっとかな、まあ、いいか。
やりたいことをやらない、やれない言い訳をするということ、にずっと憤ってるけど、やらないために言い訳をするんだから。考えられなくなってくる。というところからはじめてスタートしなきゃ、行き止まりから、こそ、話し合いと言うのは始まるべきなんじゃないかと思っています、最近は。
あとは個人の自由、というのにも、個人主義、個人主義、なにも、そこまではっきりと立場を表明しなくても、言いなりになりません、流れを汲みません、私とあなたは他人です、自衛、予防線、困らない方法。他の人が出来てない、じゃない、出来てない人が持つ不健全さが目につくからって、それの逆が健全と言うわけじゃない、目に見える間違いというものに踊らされている。
今現在、現代の、今、まさに今、この時への絶望、終わりが見えるということ。救いようのなさ、何が起こっているのか。そういうことが結局よく分からない、なるようになって、そうなり続ける、そしてそれに参与、参入することもできる。好転しないということ、ああ、今を見ることが出来ない、確かめようがない何が起きてるのか。作っている時に完成をみることが出来ない、作品。困った。変だな。
誰も読まないと分かっている本を書き続けることについて、誰も、殆どすべて以外の人以外。誰も、私が読む、読んで貰いたい人が居る。それでも誰かに、知らない誰かに進んでいく、連なっていく、なにも生まなくても。なにを信じるのか、なにを得るのか。でもやっぱり描くこと、自分が描きたいものを信じる、それがすごいってことを信じる、いや、証明する、証明なんてしない。描けるなんて、なんていうか、恩恵のようなものだと思う。私は描けるということを信じている、描くんじゃなくて、描けるということが起こること。
私は描いていないと、なんだかわからないけど、描いていない時間を長く過ごしている、だから、描かなくて「も」いいよって言ってもらえらことがあることのありがたさがわかる、描かなくても私は私を失わないんだと言ってくれる友人が好きで、それでも、それでいてやっぱり癇癪を起してしまう。私らしさは描くことに含められていないということのような気がする、拡張して膨張して、なにが元だったのか分からない要素の中でなにをどう見つけて取り出すんだかなんについて語るべきなのか何も分からないけど。どんな意図で言われても、腹が立つ。でも言われてしまったということを重く受け止めないといけない、そう思わせるような態度を取りつづけてるということを分かってる。まだこれをなおせない。幼稚な意識に苛まれている。自分が逃げてることからこそ、強い反発が生まれるから。これがわたしだとか、これはわたしじゃないとか、そういう執着の作用は強い。良い悪いとかとかいうこと、だからこれは裏切りなのかとか信頼とか反発、後悔、賛成、最善とか、そういうことはどうでもいい。どうするべきかなんてものは、なくて良い。少なくとも私が関わると決めた人に関しての話として限定的に言わないと駄目なのかもしれない。わたしたちが侵しがたい秩序というものがあって、だからって、見極めようとすることを忘れたらそれは形骸化したルールでしかない。やさしくするんじゃなくて、見すえることができたらなあ。出来ない事をしないための代替案というのはまずその時点で間違っているのに、まるで妥当であることを正義であるかのようにすら感じる。最善の妥協案、この値段帯の中では群を抜いた商品であるということ。コスパとセールのことは信じたくない。無視や無関心を上手く誘導されている、便利というのは自力で工夫したり考えないで済ませられるということ。それにこそ!と、お金を払うのが主流。誰かが選んだものに乗っかる。自分より知識のある人。マシである。でも、マシか、面倒くさくてハズレが有るもの、を、選ぶという発想は時代遅れと言われていると思った。

私は私は私は絶対に絶対に絶対にこれだというものを、そうじゃなきゃ嫌だ、とにかく今はそういう起動、推進、爆発、エラー。
考える、考え続ける。エラーを出し続ける。
「これだ」になる。
2018/02/09


あ〜〜〜〜〜忘れてた入金しなきゃ
私はいま世界中の人に嫌われているという精神状態なので!!!地面が不安定!!がんばります!!!


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
他人、という言葉


私以外、という意味と、私と関係のない人、という意味とある。
私の領域が広い人は、いやこれは脱線かなこの世界が私であるというの。
他人を作らない人は気さくだなあと思ったわけだけど、それもある一つの強迫観念なのかもしれない、ポジティブな意味でストレスに弱い人というのもいる。私なんかは誰ともお話ししたくない時の方が多いけれど、近くにいる相手に親しみがないのが面白くない、不安であるという感じ方もある。相手が誰であるのかを知っているという事は強みだから。関わらなくともやはり観察はしていたりする、分かっているというのはやっぱり安心だよね。私は無関心という図太さを持っているので察しが悪いというところがある。

なんで考えている事を言えないのかな、言えなさ、言いたくなさについて。
面白くないからかな、この話も面白くない。面白くなくて泣けてくる。面白くないことを人が喋っていることも、不思議で仕方ない。なぜ喋っているのか、それが目的じゃないんだろうと見当がつくので、他の理由を考える、やはり見当がつく。それ自体をしていることの価値や、他にすることが無いとか、円滑さの為のコミュニケーション、舌を滑らかにしたい、喋るという快感、苦肉の策、空気を読んでいるとか、愛のある作業や作用
何の話だろう?
どこに着地させたい話だろう
その瞬間瞬間の判断にはなんらかの温もりがある、という事が言いたいのか?
それとも、恥ずべき行為を恥ずべき理由で行うと考えるものだから話が進まないという話をしたいのかしら。いや、違う理由はどうあれそれは恥ずべき行為である、という事が動かせないという結論について。
だからなにと言わないものを描きたいにしても、なにかしらある、わたしにもある、好みがある、むしろなくてはいけないのかもしれない。
細かく、細かく細かく細かく、強かに。

はて、さて、これはいやらしさのはなしかもしれない、いやらしさについて考えている。
1 態度・ようすなどが不愉快でいやみな感じである。いとわしい。「おべっかばかり使って―・い」
2 好色らしい感じである
うーん、うーん、ご機嫌を取るような人間になりたくない。でも気を使いたい。うーん、これは判断力の問題なのかな。怖いなあ、こわい。どこから自失なんだろう、あまりうまくいっていないんじゃないかといつも不安。自身が無いのがやっぱり、もんだい、その問題は明らか。
明らかだ!バカやろ!

バーカ、バーカ!
そんな傷つくな。
2017/10/22


差し迫ってるとは言えない、結晶とは言えない
あ〜また、保存する前に閉じちゃった…言ったことも書いたことも忘れてしまう、自分の中で重要なピースを取りこぼし続ける。感情的だったから何書いたか全然覚えてない、あ、いやまって、ブルーハーツのことだった、それは書いた、脆さ弱さを見せることの美しさへの信仰の話、誰かを崇拝することの純粋さの話、こんな風に簡潔にじゃなくてもっと、差し迫って思ったことがあったけど通り過ぎてしまった。アイデアとか出来事にしてしまった時点で表現なんて霧散してしまう。もちろん双方向性のものだけど、それでも不可逆じゃん、説明→表現、表現→説明、一致しない。翻訳もそうでしょ。つたえること、とおる、とおす、つうじる、通す透す徹す、んん、つたわる、流す、とどく、そこへ、届かない、行けない、辿りつかない、ある、そこがちゃんとある。まあでもこれは孤独の話だったと思う。孤独の話だとは言えなかったけど、もう大事な部分を忘れてしまったから、本当のことを言うしかない。
物を描きだすとどうしても孤独にならざるを得ない。あらゆるものを受け付けなくなる。そうすることでやっと一本の線が引けるぐらいの状態になれる。
2017/09/16


ひとつしか言えない
立体の中の1面、1本の線しか取り出せない、言葉で話すことを選ぶというの感覚。どうにか伝えようと、自分と相手の間の言葉を探して、探しあぐねていても伝えなくてはいけないとき、ひとことひとことで、相手を裏切っている。自分を裏切っている。私にしてくれたこと、言ってくれたこと、私が思うこと、共通の認識だと信じていること、私の望みに敵う言葉が無自覚にそれを否定している。
私たちが他人であるということ自体が裏切りであるかのようだなと思う。実際にそうは思わないけど、示されていると感じる。
私は面白いと思う、伝わらなくてありがたいと思う。取り出して開いて塊のまま未分化の形のない明確なそれをそのまま伝えたいというときが何度あっても、本当にそうなることを考えるとゾッとする。
わたしは信じるという行動が好きなんだと思う、私の信仰は信仰自体の中にあるのかもしれない。疑うことも好きだ、わたしは知っていることを保てないと思う。分かり合える世界を望んでいない。分かりあって、分かり合えないことが分かったとき、私たちはどうなるんだろう?どこまで分かり合えるのか分からないけど、全知全能が、未来予知を含むんなら、分かるというのは無じゃないかと思う。分からないことに価値があるとは思わないけど、私はあまり信じていない、私たちが別のものだということをあまり信じていない。別のものにしては私たちはお互いを分かりすぎるんじゃないかと思う。そうでないことを信じたいとも思う、どちらかを信じているかというと、どっちも半信半疑なのだけど、別であるということを強く意識せざるをえないことがあまりにも多くて、というか面白くて、不思議とその逆に寄りかかるのかもしれない。流行歌が同一性を語っているとは思わないけど、その内側に同一性があるのも確かかなあとは思う。ようは、別だ別だというのと同じだ同じだというのがどうも同じことっぽいのだ。だから私は別の話をするので、同じだということを支えにする。多分同じだという人も、違うということを支柱にしているはずだ。これは線や面じゃないという話に繋がって、ひとこと言う度になにかを裏切る、そして裏付ける。それを分かっているから信じることが出来る、お互いを裏切り続けているから、信じつづけられる、それが出来る私たちを私は信じている。
2017/09/16



total : 108166