こんなに長いこと遊べる機会が次いつあるかなんて分からないよな〜とひとりごちて欲張ってしまった。しかし内容は二日分くらい、ほう時間の…感覚…?その分シャッキリしないとな〜などと言いつつ、プルさんの携帯の払い込み受領書を片手に帰路につく。あとファイルにはたからのやま。
何でも飲み込む女
何でもよく噛む女
ふむ
携帯代払ったよという遠回しの報告でした。
そうです、てんぴさんと美術館にふたつ行ったんですらんららんら、ay-oは三人で!三人で雲のなかに入ったのすんごく楽しかった!!
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HCO3- + H+ → CO2 ↑+ H2O (生存確認用にお使いください) |
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楽しかった〜
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こんなに長いこと遊べる機会が次いつあるかなんて分からないよな〜とひとりごちて欲張ってしまった。しかし内容は二日分くらい、ほう時間の…感覚…?その分シャッキリしないとな〜などと言いつつ、プルさんの携帯の払い込み受領書を片手に帰路につく。あとファイルにはたからのやま。
何でも飲み込む女 何でもよく噛む女 ふむ 携帯代払ったよという遠回しの報告でした。 そうです、てんぴさんと美術館にふたつ行ったんですらんららんら、ay-oは三人で!三人で雲のなかに入ったのすんごく楽しかった!! |
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2012/03/26
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記憶、記録、リフレイン、残り香、移り香
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好きな人、こういう線描く人多い気がする
が こういう線描く人好きだなあ になる瞬間てのはあれ、パブロフの犬よなあ |
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2012/03/19
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あれか
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つまり私は
きれい事を正しいと思ってたりきれい事を話す自分に酔ってたりする人が鬱陶しくて きれい事を信じてる人や信じようとしてる人が好きだっていうことか きれい事を気持ち良いと思ってる人が気持ち悪いのな その尊さ気高さと困難さを同時に見つめている人が好きなんだよ 細分化されるけど一口に言うと大半の人はそういう人が好きなんじゃないでしょうか |
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2012/03/16
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その後は?
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名言っていうのは重しを取ってあげる言葉と、気づきを促す言葉と、かな
それはそれは、万人受けする。だからつまりキャッチーなわけで その向こうと言うのは極端に細い道になる、その向こうっていうのは、そのあとでもいいし、横道でもいいんだけど それは有っても描かれなかったりするし、それは作家性と言うより出版というものなんだろうかと思うと、面白い面白くないの定義はどこなのかなあ。 より多くの領域で納得がいく、許容できる?平易さは万能になってしまう? いやとにかく細い道って興奮するなあ、あと平易でベタなものすき=質の低いベタでホモだけどきちんと練られてなくて変に予想を裏切ろうとするドラマが好き あ、説明がつくなこれは そういえば正しさに反対の極論に聞こえる論調で食ってかかった後に「どちらも疎かにできないしお互い他方を否定して優劣を決めるのじゃなくて、別の大切な事として尊重できると素敵ね」という文に出会って、アレは短気を起こして相手を不快にさせたのだな、思慮が足りなかった。と思ったんだけど、その文自体はとても反吐が出るきれいごとだなと思った。素敵ねっていうあたりが胸糞悪い。それを重要視していて当事者でいる人間が作為でなくそういう言い方をするとは思えないような目線のあたたかい正論は、その人の言葉とは思えない。"言葉"としての言葉なんだろうか。なんかシスターとかが言えばときめくんだよな、そのひとが人間であるという前の言葉なら。いやでもこれがまさに自分の感じていた違和感だったんだ、と感じる人は少なからずいると思うから、というより、そういうことを正しいとしていくことは素敵な事なんだから?素敵な事なのかな?感情と言うのは特別視しなくても耐えられうるのかな、わたしは"押しつけません"という押しつけが嫌だなあ。"押し付けないで居られる心"を見せびらかされることについての配慮がないままで美談にするには結局自己犠牲しか無さそうで、それは別にどこかで不幸でいろというんではなく(まあそれでも逆に言えば足りてしまうけど)単純に覚悟みたいなもの、「訴える」というのは「わが身を切る」事でなければ(本人がそれで痛みを感じなかろうと)いけないのだろうな、という事か、な。これは受動側といより能動側の礼儀であるべきこと、というニュアンスの。これはそのジャンルにおける話で、ネット上の発言に覚悟を持つべきとはけして思いません、そんな弱肉強食で権利奪われる世界嫌だよ・・・。裏付けのあるなしで正否や優劣を決めようとする、居場所を追われる流れはネット上の方が色濃いけども。言葉でやり込められるとやり辛いところだからな。 顔や表情や声音やファッションや雰囲気で、視覚や聴覚や手触りで周囲から認められている、思ってることを言葉にするのが苦手な人って、どんな風にネットを使うんだろう?って最近思っている。 |
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2012/03/15
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これだよこの
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閉じてる感耐えられない
最近価値感が変わるような発見が多くて、というか感違いに気付くような? それ自体は楽しいんだけど、ものの見方があんまり変わるのは戸惑うからいやだなあ。 今日は、「間違える」について。 「間違えない」は良い選択だと思っていたけど、あの頃の私にとってだったんだと、やっと気付いた。何日か前に「嫌われたくない」から追い出された後に感じていた靄は晴れたが、内臓に冷水をたらされた気分。そしてそれは「間違えた」気分そのものだというのがたっぷりシニカルだけど、どうしてもルールは必要だからそっちのほうはしょうがない。 |
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2012/03/14
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twitter
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しばらくおやすみっていうか、本当に呟きたいって思った時だけ呟こう。
読まない。知らない。 それか@だけするっていう使い方を覚えようかなあ。 でもいないとさびしいみたいなこと言ってもらえて嬉しかった、私も気軽に関わり合いになれるからすごく好きなんだけど。 だって、軽く付き合いたいもの、重いのは疲れるね。 でも暇をつぶされるのもつぶすのも私の欲しいものじゃないし。 でもついったーのなにが好きって RTとか、TLとか、あれって世界なんだよなあ。 RTはそれが個人の呟きだってこと、個人がRTボタンを押したってことが曖昧で不思議。 TLはその人にしか見えていないのに、その人にとってはそこで見えてる人達がまるで、なんていうのかな、共存しているようであったり、大多数のようであったり、一般であったりに見えるときがある、錯覚?だって、自分を知っている人たちで自分の世界って出来てるんだけど、世界が形を持ってしまうとなんだか掴めそうで、それが不思議。 ところで私が当たり前だと思うことを発見する人を見た時の私の感情はすこし醜い。 当たり前だと思うことに賛成も反対も出来ないけど、大賛成と言っていいはず、しかしそれは伝わらない。立っている位置が違うのだから、見てる建物は同じでも同じ景色は見えない。 すべての原因は怠惰とエゴだと知っているから、というような気分の時はそれこそ怠惰とエゴに満ちている。 「考え」が意味を失った時、結局私を「小石」を握っていた、投げるかどうか私の気持ちひとつ。さあ、「波紋」を起こせ。 独りよがりの呟き。 浪漫さんに好きと愛すると初恋について質問を頂いて、三回考えて、もう一回考えようとしている。新しく書きなおすと違う文章が現れる、魔法みたいに。こういうことを避けて通らない方が人生は楽しい。素直だということは正直とは違うし、正直だということと、本当に思っていることを伝える言葉を話せる事とは全く別のことだ。話すことは終わりじゃない、分かってもらったということを確認するからそれは対話になる。でもうつくしい話というのは大体そのシーンが必要とされない。ヒーローのセリフを受け取るのはヒロインではないからだ。我々が感動すればヒロインは行動を起こすのだ。 相手の体重をどれだけ支えられて、自分の体重をどれだけ相手が支えられるかというのはとても面倒くさい類の問題だ。 質問とはそれだけ慎重なものだから、でも私は不躾に質問されたいし、させてもらいたい。 ------------- 例えば、 「だって、軽く付き合いたいもの、重いのは疲れるね。」 っていうのはやさぐれて言った皮肉と、疲れたっていう愚痴で。意味は一人で空回りしていることに疲れましたみたいな事だけど、この文章からそこまで読みとるのはこれが私が書いた文章で、私が私をよく知っているからです。 「質問とはそれだけ慎重なものだから、でも私は不躾に質問されたいし、させてもらいたい。」 っていうのは、私の主義や主張ではなく、私はあなたのやり方に合わせるつもりだけど、それをあなたが許してくれるなら、そうだっていうサインをあなたが少しでも示してくれるのであればそうしたい、って意味で。普通に話をするときに私がそうしたスタンスで人と接するという宣言ではない。みたいなことも、やっぱり「こうだから、こうして欲しい」という文章からは伝わりません。相性のいい人なら質問し合えるかもしれないけど、それは結局ここにそう書かなくてもそうしてくれる人だけで、結局この私の願望だけでは相手の行動を変えるほどの親切さも有効性もないわけです。まあそもそも、普段質問しない人はそれが習慣やスタンスなので変えられないのは仕方がないわけですけど、まあその場合は「そうだって話をする」っていうのが私にとっては嬉しい話っていうのはまあどうでもいいんですけど、どうせ会話なんてなまもので乗らないときは乗らないんだから、寛容になろうというものですというのは自分に対する励ましです。私は軌道に乗せる方法はまだ全然分からないのです、多分あると思うんだけど。 |
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2012/03/12
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本日の勘違い
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わたしは間違ってた、誰かを大事にするなんてよく言えたものだ。
そもそも大事にしたかったんじゃなくて、大事にして欲しいって駄々を捏ねてくれる人が欲しかったから、私あなたがもし言ったらその我が儘を受け入れますってお知らせして確率上げたかっただけで、周りの人を勝手に大事にするなんて馬鹿げたことするつもり無かった。 自分の言葉の意味を履き違えるなんて、無責任を。 まあどうせもう、どっちも意味を失ったのだからどうでもいいか。 大事にしていい人をさがすのも、無闇に人を大事にするのもよして、いつの間にか大事になっているような人が大事だって気付いた時にだけ考えることにしようと思ったんです。誰かを大事にするなんて荷が勝ちすぎた出過ぎた無謀な頭足らずだった。 いやまあ私には人を大事にしない度胸なんてない失礼な人間なんですけどね、デリカシーはないけど、感じないことに気を使えないってのは感じないってことにつきますから。 私は慎重に以外の方法では大事にできない不器用な人間ですから、しかし私が慎重に扱う限りの態度はきっと都合がいいだけの馬鹿みたいのものです。だから愛するだけなんて、愛しかのこりません。私はそれが素晴らしくなるのが怖いです、だってきっと素晴らしいから。 「だって愛はいつも死の裏側にあります。」 だから私は、この愛と死を見つめるとき、ときに怒りに駆られます。愛は死だからです、私は愛のなかに渇望が見えません。愛は勿論、生を愛しますが死を程に愛しているように見えません。だって愛は渇望を愛しますが、愛は渇望をしません。 愛を渇望する生は、生を渇望する死でしょうか?いつか死ぬのだから。 愛は渇望するのですか?愛は、愛は、 愛は、死なのです。 生きているものにしか、(醜い我々でなければ、)愛は、愛足り得ない。 愛は自分の足で立つことはない、生きていないからです。愛は恵みなのです、生きて死ぬためにあいにめぐまれたのです。 私は愛しか持たない人間は生きていないと思います。しかし驚くほど生き生きとして美しいでしょう。 これは愛の話かわかりません。 私の見てきた愛の話です、私は愛を愛してしかおらず、愛の本当の姿を知っていると言えるでしょうか? 人を傷つける人をそれだけで糾弾する人は慈しむ愛しか知らない愚か者か、孤独でしか生きていかれない臆病者です。 愛は糾弾しません、愛は恐怖しません、愛は憎みません。 しかし私はその人たちがとてもとても愛しい。 死を憎む人がとてもとても好きです。 |
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2012/03/10
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負け犬が何をいってもウィットじゃないのかどうか
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好きなもの描いたときに、「ああ言ってたやつね」って思われるのが嫌だから、細かい萌えについては口をつぐむんです。まあ大分ゆってるっちゃあゆってるけど。だって、
言葉より上手に伝えられんのだから。いや言葉では伝えられんのですが、さらに悪いのです。絵も漫画もとても遠い。想像においての、遠隔操作でロボットを扱うようです。 しかもやっぱりさあ、細かいシチュエーションほど思考が画一化まあつまりワンパターンなんだよね、ひとつの仕草や台詞に拘ってる。男子的には同じタイプの女の子ばっかり好きになるしたとえ女の子のタイプが違ってもその子達のおんなし動作をズリネタにするのさあ〜、興奮するポイントってのがさあ、 それは秘密にしときたいのが乙女心っていうか、恥ずかしい恥ずかしいよ…プレイじゃんプレイ でも自分でも無意識に同じパターンにハマらないように逃げてるからなあ〜、天邪鬼なんです、素直でいて天邪鬼なんです。で好きなもんを見失う。一度好きになったタイプの人を避けていくとそれって全部のタイプを潰していったらどうなるのかな、死んでしまうんだろうか。どこで止まれるんだろうそれともめぐるのかな、いや一度死んだ方がいいのかな人間としての小さな消失。 多くは突き詰めるほど人から理解されない時点のとこで落ち着く気がする、マイノリティは刺激的だ。女のエロを突き詰めた人がさあ、シーメールに嵌まるみたいに、答えの出せないところが安住できるってのはあると思うんだよな、ほどよく葛藤が常にあってさ (とっておきの美女は毎日見るものじゃないよなあ、一生に一度くらいがちょうどいい。) そういう所謂、な性癖の人って、とても独り善がりに感じるし、歪んだ執着って自己愛の極致っぽくて不快に思う人が多く?いると思うんだが、いやああいうのは当人の中にだけ見えてる煌めきの追求だから物に凄く近いしだからってその人にとって人生程の価値があると思うんだけど、それだけに妥協を許さないから輝きの失われた物からは興味を失う、ああ人道とは・・・ 愛されるために張り詰め続けることって?ひとつ失っただけで愛されないというのは愛なんだろうか?みたいなさあ、そんな奴に美術品のように愛されて幸福なのかみたいなさあ、でもそこが問題ではないと思うな〜、それって全体ではないよなあ、全体だと感じる人もいると思うけど、多くは全体と思い込んでるだけだよなあなんか嫌だなと思ったらその時点で十分に嫌悪できるもの。関わらなければいいだけで。でもさあ、ただ出会ったという理由で一生離れないって約束されるという愛となにが違うのか解らないんだよなあ。だっていいところ見つけるなんて簡単じゃないいやそれはいんだけど、ああでも、そんなことじゃないよなあ、たださあ、わたしは誰かが蔑まれるべき冷血漢なのかどうかが知りたいんだよなあ。 いや実際にそういう人を受け入れて(かといって頼りにはせず)人って生きてるんだと思うんだけど、他の部分で必要だったりしてさあ、だからやっぱり一部だって分かるんだけど、勿論感想は人により(普通の人ってのは人口の何割?そしてどう分布している?)。善良さも技術で個性という一部なんだし、しかし娯楽フィクションの世界ではそういう物事の記号化単一化が美徳っていうか。わたしは娯楽フィクションを愛してるから、娯楽フィクション目線で物事を考える癖があるし、実際その目線はある程度有効性があると思うけど、馬鹿げてると言ってしまえば悲しいほど現実的でないし、それだのに文化っていうのは現実より幻想や思想の上に成り立っているんだなあという矛盾と抱き合う気分というか、だからわたしは名言や建前ってとてもインスタントな信仰みたいで、(つまり本人に素質がなければ有用性がなくてさあ、それ自体には内容が伴わなくて、それなのにまるで真理があるみたいで)嫌いだなあ。説得力のある美しいことばは、自分で自分のすることの理由を考えられなくなるまやかしめいていて、嗚呼 ブランドはさあ、結局着る者を選ぶからブランド足ると思うわけです。端から見て。端から見る必要なんてあるか知りませんけど。当人がね、恥ずかしいと他人に言われて恥ずかしいと感じるかどうかとかそういう話で?まあそれすら判断材料なんて曖昧な、セルフプロデュースとは・・・? あと 二年前くらいの自分が言ったことを思い出して、ああ変わってしまったと面白がる夢と、 ペットを4匹飼ってたのに2日存在を忘れ、1匹行方不明1匹死んで(カピバラ)、2匹(犬猫)は喉カラカラで、犬抱えて外に出ると近所の夫婦に話し掛けられペットの話で勝手に盛り上がる夫婦のフレンドリーオーラに気圧されさらに夫婦の友人達まであらわれオロオロオロオロ…っていう話なんです、だけど実は私ペット飼ってないんですけどね、って話す夢を見た… 怖かった…カピバラがお風呂のモップに… ペット飼ったら殺すぞという………? うええ… |
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2012/03/09
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下の補足
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あっ、あっ、大事な事を忘れていて
大前提としてそのいわゆる水飴的な関係っていうのは不必要なんです、いや不必要じゃないか、非日常なんです。NOT当たり前なんです。 だから、それがそうでない状態の方が自然なんですよ、だからそこにはなんの義務も理由も必要ないってことなんです。 勿論約束はできますから、約束したらそりゃ、ね。つまりそれって恋愛ですね。一緒に溺れましょうって、ロマンティックで堪らないなあ。実際にはそう言われたくてたまらないってのも否定できない事実ですね。 最優先にするってことはやっぱり他が犠牲になりますからね、私にとって常にこのタールだか水飴だかは最優先されることはないんです。 そのことに気づいてない間もずっと頭を抱えていたってことに無意識でも実際痛くて痛くてしょうがなかったわけですから、私にとって犠牲になる側なんですこれは。それはしょうがないんです。 それでいて、それでいてってことで。説明が難しいな。目的にはしないけど、続けられるだけ続くように頑張りたいし、離れてもいつだって出会いなおせるし、かといって無かったって問題ないっていうのが大前提の、愛しい存在を、それがある時もない時も、相手とそうである時もそうでない時もそうなりそうな時もそうじゃなくなりそうな時も、それはどんな状態だったとしても同時に愛しいってことです。 ああなんか、文章にすると違うなあ、感謝とか、一期一会みたいなことが言いたいんじゃないんです、そういうんじゃなくて、ありのまましたい努力はして、出来ない努力をしないことを悔やまずに、手を繋ごうとしたら繋げるってことが、それが当たり前なんだって事で。そりゃ合意が必要ですがね。 なんていうか純粋に、自分より前を歩いている人が私には見えて、その人の隣を歩くためにする努力がどれだけ楽しいことかって考えたら、時間が差を生み出し続けてくれるってことは本当によかったなあと、思ったんです。 私の知らない時間がその人にあって、いつの間にか差が増え続けていく、会わなければ会わないほどその人は別のその人になっているってことが、その時に私にも平等に私の時間が経過し続けていて私もその人の知らない別の私になっていて、それはみんなそうで、いやがおうにも、しかも時間は有限で出来る事も会える人数も限られていて、限りがあるから個性が生まれて特筆されることになって、尊敬されたりして、それってとても美しいハーモニーなんだなあという事で。感動しているわけです。 その間に別の居場所を見つけたりもして、でもそれって悲しいことでしょうか、良く分からなくて。相手といるために自分に勝手に義務を課して、相手がその義務を果たさなかったら悲観に咽ぶなんて、夫婦間でもそれは暗黙の了解とは言えないんです。人と人の関係に決まり事なんてないんです、確認を取らない美学を私だって承知してはいますから、それはそれでとても美しいと思います。単にこれは契約されていない事柄の不履行を責め立てるのって難しいなという私個人の価値観ですし。お互いに悪いとなったらそりゃあ悪だし、善となったら善で、問題ないのですから、そこで善悪が衝突した時に相手の話を聞けるかってだけの問題ですから。 相手とどんな関係でも面白いなあというのが私の考えで、どんな関係でもどちらかが悪いと決める前に出来る事っていうのがいくらでもあるんで、それを出来ないっていう瞬間に関係って決まるんだと思うので、「したい」と「出来ない」っていう事の面白さっていうのを、面白がっているっていう訳で。 「出来ない」ってことがイコールで愛せないってならなくてもいいのになあと、思いながら、でもそう思ってしまうのもしようのないことなので、やっぱりそれも含めてそれって面白いなあと私は思う訳です。まあ殴られたら痛いのでそれに関しては面白くないです、つまり悪意って意味でね、激情も怖いんですけど面白い。でもまあ、悪の話って当たり前すぎてあんまり面白いと思わないんですよね、どこからが悪かってのは面白いんですけど。まあそれも好みの話ですね。 −−−−− 別に反応が欲しくて書く訳ではないんですけど反応していただけるのはもうとっても嬉しいわけです。しかも、反応の先に文章があるなんて至高ですわふわふ これがね、こういうのがね、会話では到達し得ない部分なんです、自分のお家の置手紙、わふ ツイッターやスカイプが開けて、こういう風に言葉を交わすことってとても少なくなったので、でも私はこういうのが堪らないなあやっぱり そもそも日記優先という時点で、良いよなあという次第 私はわりとえぬろまにはソワソワっとしてますずっと、いや別にそういう意味のソワではないんですけどいやもちろんそういう意味でもいいんだけど |
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2012/03/01
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時間があってよかった
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自分がなんだかだらだらと時間を過ごして享楽に身を寄せ考えないで居ても、楽できっと楽しいし、それで一生過ごしたって良い
しかし私が同じ悦楽を繰り返している間中、周りもずっと同じ毎日を繰り返してはくれない 進んでいく、あたりまえに変化していく、良かれ悪しかれ。 そこに人の繋がりの変化は顕著だ、やはり3年も合わなければ別人だ それがそれでいいというのは、もともと別人同士として付き合ってきたからで、あのどろりとした粘着質なゆっくりと進む時間を共有するにはやはり、確認し続けるという作業が必要不可欠なんではないかと思う いや、きっと時間の価値観は人によるから、私にとって、というんであればそれはいまのところ間違いないだろうと思う、私と言う人間がもうすこし確信だとかに長ずれば話は変わったが それはいいんだけど、同じことを話せている人の話が今日の主題だ 同じことについて話せているということは、それもしばらくの間、歩調が合っていて歩んでいる、 ここで私は走り出しても、突然止まっても、早歩きでさえ相手は隣の人物を失うのだ いやここではさびしさについて話したい訳ではないし、私はそういうことにそういう感情を抱ける繊細さを持っていない。 私は単に、ええと、散歩じゃなくてもうちょっと上を見よう、尊敬している人たちに尊敬されたいと思うには、持続可能な程度の背伸びをし続けるってことが不可欠だってことだ その人達に尊敬されなくなっても実際に痛かったり痒かったりはしないし、必要にさまられれば尊敬なんて選んでいる場合ではないとはいえ、これは心地よい刺激だという相互理解が一度起こった関係と言うのは、それはつまり信頼と言ったもので、私はそれがとても愛しいので だから早歩きをやめたくないってことで、早歩きってのはちょっと集中力が必要なものでおざなりにしているといつの間にか速度が緩んでいるっていう訳で、かといって早歩きしながらするべき事やらしたい事やらなんやらかんやらもしないといけないわけだけど ずっと一緒にいないからこそあなたの見た世界や私の見た世界の話が出来るわけで、個人行動って大事だよねっていうか これはなんかあれだな、バンドの存続問題のような気がする。練習したりそれぞれ旅行やら色事やら別々の友人やら趣味やらそしてそれはすべて自分の演奏に返ってくるし、腑抜けた演奏を続ければピースは黒く歪むわけで、はまらなくなるか色あせるか黒く染まるかなんせよ、ピースとしての役目をはたしてひとつの図柄を完成させることが出来なくなれば居場所はなくなるし、それは無慈悲とかそういうことではないという なにが言いたいかっていうと、時間がなくて世界が止まったままだったら動こうなんて思わないしこんなに楽しい思いをすることもできないから世界がずっと動いていていやがおうにもどんなに状況がそれを拒もうがなんだろうが、私にはどうすることもできないってのはもう感動としか言いようがない 毎日死んでるみたいなもので、関係だって毎日隔絶しながら連続して密着し続けるっていうかつまり、楽しいってことだよ。我々は別個で、努力でどうにもならない事柄に包まれながらお互いの存在を確認し続けたりし続けなかったりできるってわけで、所狭しと歩いたり走ったり、ほんの些細なスピードの違いで出会えたり出会えなかったり離れていったり再会したり、会話だってできるんだから、スピードについて相談だってできるし。あとは優先順位の問題なんだし、楽しくない努力なんて、孤独で良いんだし、責任なんてないのだし。優先順位からこっちは作品と人間ってのはどうしてもどうしても相容れないのだよなあ。という意味の発言です。芸術と人間どちらが上かなんてちょっとよくわかりません。 気ままに書き過ぎた。 いやでも私は楽と幸せは全然別の次元のものだと思いますよ、最近というかずっとかなこれを混同するから悲劇が生まれるんだちょっとよく考えていただきたいまったく。 |
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2012/02/29
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