どうも驚くほど静かに、時間は流れ流れているようでして、さてもう2018年の暮れですね。
いかがおすごしでしょうか?
以前にも書いていたけれど去年の今ごろは、体の疲れと精神的な疲れがそれはもう凄まじくて、キリキリガリガリ削られるような日々でしたね。つらかったなぁ。だいぶ体調が悪かっただろうに、気づかってやれてなかったな。実際、長く生きていて幸せなのか?つらいのが長引くだけじゃないか?どうなっていくんだろうか不安だったり、憎くてはやくしんでしまえと思ったり、情緒の安定という言葉は遥か遠くだったな。
感情のブレについていけなくて、なかなか折り合いがつけられなかったけど、35年も一緒にいたものだから、もうひとつの気持ちでは表せないものだったのだと思うことにした。いなくなった。もう会えないのだ。
去年の今ごろは、いなかから祖母を呼んでいて、メンタルが思いの外ボロボロになっていたせいで色々あった。ひょんなことから父と二人で枕を並べて眠ったのだった。二日ぐらいだったかな。
泣きながら話す私に、真っ暗な中で、聞いたことないような穏やかな声で慰められた。家に住まわせてもらっておいて甘えた話であるが、父をだんなと呼んで心の距離をおいたのは、父を父と思っていないという抵抗とも言えないような抗いからだったのだけれど、あのとき、20年も前に求めていたものを少しもらったような気がしたのだ。
あれよあれよと年が明け、驚くほどのスピードで、ガクンと体調が悪くなり、入院して退院して、節分をすぎ、その月末にまた入院して、4月にはもう会話が繋がらなくなって、
誕生日の一日前に、さらにガタッと悪くなり、一瞬で死んでしまったのだ。人は瞬間で死んでしまうのだ。もういないのだ。世界中どこにも。家にいないことが長かったから、まだ病院にいけばそこにいるようなきがするのに、もうこの世のどこにも。1秒後も10分後も1年後も、もうおはようもおやすみも言えないのだ。遺影に、お墓に、声をかけたとしても、風に話しかけるようなものなのだ。
くだらないことほど、話したいと思うのに、もういないのだ。
あけましておめでとうは、二度と言えない。
生きてるうちに、話せるうちにしか、
交わせない言葉なのだ。
それでも明日目が覚めたら、おめでたくもない新年の、変わらない写真の顔に、
新しい年の挨拶をするのだろう。








