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兎の放蕩物語


人間五十年 ウサギは…!

人間五十年 ウサギは…!
今年、高齢者の仲間入りするウサギは持病と上手にお付き合いしながら何とかこの年齢まで元気に生きて来ましたが、どうやら若いときから無理をして来た様で今年は病院にお世話になる事が増えて来ました。

と言っても生き方が手抜き出来ない几帳面な完璧主義の積み重ねがそうさせた訳ですが。西伊豆の民泊の予約がフルに入って高松から東京経由で伊豆に戻る予定の未明に高熱と低血圧で倒れてしまい病院に緊急入院して有無をいわさずその日の夕方には人生初めての手術を受けることとなり、無事生還しました。

8月5日の事です。
ベッドに縛り付けられての入院生活の6日目の今日。日記を書く気になれた状況ですがとても不本意で早く退院したい気持ちばかりです。
この日を機会にもっといい加減に、手抜きをしたり怠惰に生きても良いのかなあと自問自答しています。
16/08/10 (Wed)


手紙は書く方ですか?

手紙は書く方ですか?
年齢には関係なさそうですが、ウサギはわりと筆まめな方です。

手紙を書くのは面倒ではないし、切手も郵便局に行ってその時のデザインのよさそうな記念切手を貼って葉書を書いたりセールスレターを出したりしています。

パソコンやスマホが普及してメールやラインで伝えれば済むこともアナログ的にその人一人一人を思い、一筆添えたりして暑中見舞いも出しました。
性分だから押しつけがましいと思わないでくださいね。

ヤナセからもやはりきちんと立秋前には暑中見舞いも届き(写真)基本は大切だと痛感します。
16/08/04 (Thu)


高松から暑中お見舞いを

<e129e>高松から暑中お見舞いを
♪六月六日に雨ざあざあ降ってきて…、三角定規にヒビいって…♪

「梅雨の期間」はこの歌を歌い始めて45日間くらいというがウサギの経験値です。

すると今年は21日前後かなと考えていたら高松は早くも18日に梅雨明け宣言が出されました。西日本はそれから猛暑日の連続です。

今年は高松のUsagi-Art四国連絡室の仕事部屋で暑中見舞いの葉書を制作と印刷をして本日投函致しました。

既に東京のオフィスには何枚か届いていて少し遅くなりましたが立秋前にお客様や大切な友人に挨拶できてほっとしています。
16/07/27 (Wed)


ブラッドムーンを見た

<e490e>ブラッドムーンを見た
満月の数日後、瀬戸内海の水平線ぎりぎりの低い位置に突然オレンジ色に輝く球体が出現し慌てて地元の友人に電話で報告しました。

するとブラッドムーンと呼ばれる月だと分かりました。

海面にもきらきらと反射光が溢れて、UFOに遭遇したのかと大慌ての白兎でした。
16/07/25 (Mon)


花火を見てきた思い出

<e169e>花火を見てきた思い出
今週末に瀬戸内海の高松市の東郊外にあるさぬき市志度の志度湾で花火大会があります。

それに合わせて西伊豆から高松にやってきました。
昨年秋に転居をして今の場所に来てから最上階のルーフバルコニーから眼下に瀬戸内海が見える環境になったので時々友人を招いて食事をしていますが、今週末は花火大会を鑑賞する目的で友人を誘ってパーティーを開催します。

思えば、花火は夏の風物詩ですが最近のものから記憶をたどっていくと様々な場所で色々な人たちと夜空を見上げていたことを思い出します。
2015年: 東京オフィスのある自宅の窓から調布の花火を室内から鑑賞

2014年: 西伊豆土肥の海岸で友人に誘われて砂浜で鑑賞

2011年: 河口湖にて遊覧船ソレイユから海上花火見物

2010年: 東京二子玉川の多摩川河川敷で友人夫妻に誘われて川辺にブルーシートを敷いて寝そべって

2002年: 札幌の仕事場の自宅マンションから豊平川の花火大会を一人で窓越しに鑑賞。

過去、結婚して子育て時代には仕事中心で家族を連れてみた記憶はありません(いやあったと思いますが記憶が…)仕事の事しか考えていなかったのか?
幼少時代: 埼玉県入間川の河川敷で浴衣を着せられて両親に連れられてみた記憶が最後です。
そんな記憶から65年生きていても数回の記憶しかないのは不思議です。

なので今回は人込みにも巻き込まれず食事をしながら友人たちと過ごす一瞬は貴重なものになりそうです。
16/07/19 (Tue)


西伊豆戸田の歴史に触れる B

<e214e>西伊豆戸田の歴史に触れる B
続きます。→

上陸したロシア人約500名は陸路を戸田村へ入ってプチャーチンやスリゲート公爵など上官は●宝泉寺●を宿所とし、士官は本善寺に他の乗組員は付近に長屋4棟を急造して3カ月余の戸田村の生活を始めたのです。

プチャーチンは宝泉寺に100余日滞在し日露交渉に当たる一方で新しい軍艦の造船を指揮しました。
日本滞在中の5回の会談の結果、12月21日には下田長楽寺で日露和親条約の締結に至ったのです。

A「戸田号」の建造

造船場所として戸田港の牛が洞が建造地として決定され設計は技術将校モジャイスキー大尉指導のもとに工学士と士官が担当し、これに日本人大工が同席しました。
設計にあたっては所持品の中にあった『海事集録』(1849年第1号)という雑誌が参考にされたのです。

作業は露天で、テーブル代わりに樽を逆さまにして戸板をのせ、その上で行われました。日本側も西洋式造船術を会得する絶好のチャンスと考えて積極的に協力し設計図ができあがると仕事は日に夜をついて強行されました。
日本側からは戸田の7人の船匠(船大工の棟梁)と船大工約40人・人夫150人が招集され日本側の者は、この様な洋式造船は未経験だったために直接帆船の建造に参加したのはこのときが初めてだったのです。

この船の建造を開始したのは安政元年(1854)12月24日で、仕事は順調に進行し設計から100日余の翌安政2年3月15日ころに竣工しました。そしてこの船はプチャーチンにより「戸田号」と命名されました。

2本マストの帆船で87トン、50人乗りで建造費は三千百両二分と記録されています。

プチャーチンと部下47人は、3月22日この戸田号で帰国の途につき、7カ月後の11月末に首都サンクトペテルブルグに到着。その他乗組員は下田に入港していたアメリカ船を雇い2月に159名の部下をペトロパブロフスク・カムチャツキーへ先発させていて残りの乗組員300名程は戸田号出航後にドイツ船で帰国しましたが、途中でイギリス船に拿捕され捕虜となっています。なお下田では1名、戸田で2名のロシア人が死亡してます。

Bロシア人と戸田村民との友好

滞在中のロシア人に対しては、「もらうな、やるな(与えるな)、つきあうな」という禁制があったにもかかわらず、戸田の村民は人情豊に面倒をみたそうです。
マホフ神父の記録の中にも、「かれらは客好きで善良である。オランダ人以外の外国人を入国させないという法をまげてまで私たちを愛想よく迎え住居を提供し生活に必要なものをすべて持ってきてくれた。かれらは友情に厚く同情心に富み、私たちは滞在中誰一人として侮辱を受けた者はいない。常に好意と尊敬を示し、日本を去るときにも友情を示し別れを惜しんでくれた」と記しているそうです。

長くなりましたが、地元の方に案内してもらって今までの滞在とは違う現地に少し密着できたような気もしています。

写真:左の船が沈没した船で右が戸田村で建造された新しい船です。

笹川平和財団:海洋政策研究所の資料を参考に使用しました。
16/07/08 (Fri)


西伊豆戸田の歴史に触れるA

<e211e>西伊豆戸田の歴史に触れるA
今日の日記はかなり長くなります。

「宝泉寺」と云う由緒あるお寺に地元の友人のおばちゃんが案内してくれました。戸田のアトリエからローカルな県道を15分ほど走って軽トラック「金太郎」で出かけてきました。

以下、説明文です。2回に分けて自分も歴史を再確認したいので…。

ロシア帝国の極東外交で活躍した人物として知られるロシアのプチャーチン提督は日露和親条約を締結するなど幕府との外交交渉にあたっただけではなく民間レベルで日本と友好関係を築いていた史実はあまり知られていません。

軍艦ディアナ号の遭難と戸田の船大工が作った初の洋式船「戸田(へだ)号」プチャーチン提督らと戸田村民との友好の歴史について紹介します。


静岡県沼津市戸田(へだ)(旧田方郡戸田村)は、東側に達磨山(981.9m)などの山々があり、西側に駿河湾と内海の戸田湾に面する西伊豆の漁村です。

駿河湾は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界が接する地震が発生しやすいところで今から155年ほど遡る嘉永7年(1854年)11月4日に安政の東海大地震(マグニチュード8クラス)と言われる巨大地震が起こっています。

この地震に運悪く遭遇したロシアのプチャーチン提督が率いる軍艦ディアナ号は地震による津波により沈没してしまいました。

以下にプチャーチンの来航とディアナ号の遭難、戸田付近の船大工が作った初の洋式船「戸田(へだ)号」プチャーチンらロシア人と戸田村民との友好の史実について紹介していきます。

@プチャーチンの来航とディアナ号の遭難

嘉永6年(1853年)7月、ロシアの使節プチャーチン提督は軍艦4隻を率いて長崎に来航し、国書を長崎奉行に提出し出航した後、再び翌年10月ディアナ号単艦で下田に入港しました。

その目的は北海道・千島・樺太方面の国境問題を解決することと通商条約を結ぶことでした。ところが、11月4日の朝9時ごろ大地震が起こり下田港内に碇泊中のディアナ号は、津波(波の高低差約11.6mと記録)で艦底を破損し激しく浸水してしまいました。この津波で大砲の下じきとなり水兵1名が死亡、2名が重傷を負ったのです。

大きな損傷を受けたディアナ号は沈没の恐れもあり修理が急がれましたが下田では英仏の軍艦に見つかる危険があったため、伊豆半島の浦々を調査した結果、戸田浦(田方郡戸田村)を修理地として決定したのです。

理由は、御浜岬が突き出ており内側は砂浜で良湾であること、三方が山に囲まれていて交戦国の英仏の目に触れにくいことなどでした。
ディアナ号は戸田浦へ向かうため下田を出航しましたが、途中で大しけに遭い、戸田と反対方向へ押し流され、宮島村(富士市)沖合で沈没してしまいました。その時に戸田村の人たちの献身的な救助活動により1名の死者もなく全員上陸できたのです。

to be continued.→続きます。
16/07/08 (Fri)


禁酒か断酒か

<e012e>禁酒か断酒か
医師のアドバイスと自分の体調のすぐれないこともあり、あっという間に一口もワインを飲まないで40日以上も過ぎてしまいました。(梅雨の期間45日並みかなあ…?)

体重も70kgを切って体調も回復しているのですが、ワインのない生活がこれほど味気なく殺伐としたものかつくづく実感しています。

食事の時にテーブルの上にワイングラスがないのが寂しくてウェルチのブドウジュースの白・赤を代わりに入れてそれらしく振舞っても何日かするとその甘さに果樹入りのノンアルコール飲料とともに飽きてきてもう飲みたくなくなり、急にヨーグルトやアイスクリームが多量に摂取したくなったり身体の面で肝臓は休ませても今度は糖尿になったらどうするんだという悩みが、また西伊豆や高松で海を見ながら夕日に向かってワイン片手に物思いに耽る自分にとっての充電のシーンも奪われて心の面ではストレスがたまってきてすごく怒りっぽくなったりする。

どうしたらよいのでしょうか?

60代まで生きたからもう十分で好きなワインは断たない方が良いのか(多くの友人は寿命が短くなっても構わないという人が多い)
肝臓をいたわって心を患いながら我慢した方がいいのか?

事実としては以前ほど飲みたい気持ちは抑えられていることがよけい悔しい。

高松でも友人宅に招待されて、何度も薦められても断れる自分もいて友人も信じられないというのです。

誘惑に負ける方がよほど人間らしいとも思えることもあるのです。

ウサギはいかに余生を生きる方が向いているのでしょう。今年いっぱいで医師の言うとおりにしていれば完治するのですから…。
愚痴を言いながら半年耐えられるかなあ…!
16/07/04 (Mon)


委託販売車の納車

<e125e>委託販売車の納車
親しいお客様からお預かりしていた国産車
マツダのMPVの縁談がまとまり今日、東京丸の内で納車しました。

マツダの車はデザインと車造りがヨーロッパ嗜好の車で高速道路を走行しているときの接地感覚や操縦性が欧州車に近いものがありました。

でもこのMPVはサイズが大きくて東京オフィスの車庫には入れられないので西伊豆のアトリエ兼ガレージで販売準備をしていました。

大切に使われた車が新しい嫁ぎ先でまた大事に使われる縁を取り持つ。
これも仕事の楽しみの一つです。
16/06/26 (Sun)


自己管理 1ヶ月

自己管理 1ヶ月<e012e>
ワインやお酒を断ってから1カ月が過ぎて、今までは禁断症状でついつい手が出てしまうことが多かったのですが、家での食事もノンアルのアペリティフから食事の時には葡萄ジュースに切り替えて文句も言わず禁酒生活を続けています。

良い点は疲れにくくなったこと。夜遅くまで起きていられるようになったこと。悪い点は甘いものに目が行きアイスクリームがあると一度にいくつも食べたくなってしまう。

肝臓は回復しても糖分の取り過ぎは逆効果ですね。

四国滞在も今回は一週間で切り上げ仕事があるので西伊豆経由で東京に戻りました。高松では四国新聞を短期で入れてくれるので出発の日の新聞を持ってきました。

700kmの長距離高速運転も以前より持久力が上がりました。
16/06/25 (Sat)


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