今日の日記はかなり長くなります。
「宝泉寺」と云う由緒あるお寺に地元の友人のおばちゃんが案内してくれました。戸田のアトリエからローカルな県道を15分ほど走って軽トラック「金太郎」で出かけてきました。
以下、説明文です。2回に分けて自分も歴史を再確認したいので…。
ロシア帝国の極東外交で活躍した人物として知られるロシアのプチャーチン提督は日露和親条約を締結するなど幕府との外交交渉にあたっただけではなく民間レベルで日本と友好関係を築いていた史実はあまり知られていません。
軍艦ディアナ号の遭難と戸田の船大工が作った初の洋式船「戸田(へだ)号」プチャーチン提督らと戸田村民との友好の歴史について紹介します。
静岡県沼津市戸田(へだ)(旧田方郡戸田村)は、東側に達磨山(981.9m)などの山々があり、西側に駿河湾と内海の戸田湾に面する西伊豆の漁村です。
駿河湾は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界が接する地震が発生しやすいところで今から155年ほど遡る嘉永7年(1854年)11月4日に安政の東海大地震(マグニチュード8クラス)と言われる巨大地震が起こっています。
この地震に運悪く遭遇したロシアのプチャーチン提督が率いる軍艦ディアナ号は地震による津波により沈没してしまいました。
以下にプチャーチンの来航とディアナ号の遭難、戸田付近の船大工が作った初の洋式船「戸田(へだ)号」プチャーチンらロシア人と戸田村民との友好の史実について紹介していきます。
@プチャーチンの来航とディアナ号の遭難
嘉永6年(1853年)7月、ロシアの使節プチャーチン提督は軍艦4隻を率いて長崎に来航し、国書を長崎奉行に提出し出航した後、再び翌年10月ディアナ号単艦で下田に入港しました。
その目的は北海道・千島・樺太方面の国境問題を解決することと通商条約を結ぶことでした。ところが、11月4日の朝9時ごろ大地震が起こり下田港内に碇泊中のディアナ号は、津波(波の高低差約11.6mと記録)で艦底を破損し激しく浸水してしまいました。この津波で大砲の下じきとなり水兵1名が死亡、2名が重傷を負ったのです。
大きな損傷を受けたディアナ号は沈没の恐れもあり修理が急がれましたが下田では英仏の軍艦に見つかる危険があったため、伊豆半島の浦々を調査した結果、戸田浦(田方郡戸田村)を修理地として決定したのです。
理由は、御浜岬が突き出ており内側は砂浜で良湾であること、三方が山に囲まれていて交戦国の英仏の目に触れにくいことなどでした。
ディアナ号は戸田浦へ向かうため下田を出航しましたが、途中で大しけに遭い、戸田と反対方向へ押し流され、宮島村(富士市)沖合で沈没してしまいました。その時に戸田村の人たちの献身的な救助活動により1名の死者もなく全員上陸できたのです。
to be continued.→続きます。









