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上陸したロシア人約500名は陸路を戸田村へ入ってプチャーチンやスリゲート公爵など上官は●宝泉寺●を宿所とし、士官は本善寺に他の乗組員は付近に長屋4棟を急造して3カ月余の戸田村の生活を始めたのです。
プチャーチンは宝泉寺に100余日滞在し日露交渉に当たる一方で新しい軍艦の造船を指揮しました。
日本滞在中の5回の会談の結果、12月21日には下田長楽寺で日露和親条約の締結に至ったのです。
A「戸田号」の建造
造船場所として戸田港の牛が洞が建造地として決定され設計は技術将校モジャイスキー大尉指導のもとに工学士と士官が担当し、これに日本人大工が同席しました。
設計にあたっては所持品の中にあった『海事集録』(1849年第1号)という雑誌が参考にされたのです。
作業は露天で、テーブル代わりに樽を逆さまにして戸板をのせ、その上で行われました。日本側も西洋式造船術を会得する絶好のチャンスと考えて積極的に協力し設計図ができあがると仕事は日に夜をついて強行されました。
日本側からは戸田の7人の船匠(船大工の棟梁)と船大工約40人・人夫150人が招集され日本側の者は、この様な洋式造船は未経験だったために直接帆船の建造に参加したのはこのときが初めてだったのです。
この船の建造を開始したのは安政元年(1854)12月24日で、仕事は順調に進行し設計から100日余の翌安政2年3月15日ころに竣工しました。そしてこの船はプチャーチンにより「戸田号」と命名されました。
2本マストの帆船で87トン、50人乗りで建造費は三千百両二分と記録されています。
プチャーチンと部下47人は、3月22日この戸田号で帰国の途につき、7カ月後の11月末に首都サンクトペテルブルグに到着。その他乗組員は下田に入港していたアメリカ船を雇い2月に159名の部下をペトロパブロフスク・カムチャツキーへ先発させていて残りの乗組員300名程は戸田号出航後にドイツ船で帰国しましたが、途中でイギリス船に拿捕され捕虜となっています。なお下田では1名、戸田で2名のロシア人が死亡してます。
Bロシア人と戸田村民との友好
滞在中のロシア人に対しては、「もらうな、やるな(与えるな)、つきあうな」という禁制があったにもかかわらず、戸田の村民は人情豊に面倒をみたそうです。
マホフ神父の記録の中にも、「かれらは客好きで善良である。オランダ人以外の外国人を入国させないという法をまげてまで私たちを愛想よく迎え住居を提供し生活に必要なものをすべて持ってきてくれた。かれらは友情に厚く同情心に富み、私たちは滞在中誰一人として侮辱を受けた者はいない。常に好意と尊敬を示し、日本を去るときにも友情を示し別れを惜しんでくれた」と記しているそうです。
長くなりましたが、地元の方に案内してもらって今までの滞在とは違う現地に少し密着できたような気もしています。
写真:左の船が沈没した船で右が戸田村で建造された新しい船です。
笹川平和財団:海洋政策研究所の資料を参考に使用しました。









