体調が悪くて今日バイトを遅刻した。明日は休んで病院へ行くように上司に言われた。
夜に母から電話があり、千葉の叔父が癌で余命二か月らしいと聞かされた。本人はそれを知っているのか気になる。
毬音の場合、2005年4月の段階で医者から「持って年内」と言われながら6月に逝ってしまった。毬音本人には余命の事は伝えなかった。希望を持つ事が免疫力を強化すると信じ「来年アラスカにオーロラ見に行くぞ」と約束していた。結局その希望は叶う事なかった。僕がアメリカ入国出来ない事情もあり、約束のアラスカではなかったが、毬音のサイト「no―run」の北欧旅行記の結びに『次はカナダ・イエローナイフかアラスカに行こう』とあったのでカナダ・イエローナイフに毬音の遺骨と一緒に行きオーロラの舞う下で遺骨の粉になった一部をわずかに撒いた。
とにかく 余命 という言葉で、これだけの想いが噴出す。
叔母の今の気持ちを思うとたまらない。
人が人を想う気持ち。その矛先を失う恐怖と喪失感。
愛する人を腕の中で喪う絶望を味わって初めて知る感情もある。
僕の人生は絶望がメインテーマかのようだ。