昨晩、5月31日のLIVEリハーサルが終わった後、ベース・海老根氏とピアノ・斉藤まりちゃんの3人で、都内のLIVEハウスに行きました。
目的は、今年秋にメジャーデビューするアーティストを鑑賞するためです。
が、見終わった後、どう言葉で表現していいものか一瞬悩むような複雑な心境に駆られました。
恥ずかしいながら、今回初めて彼等を聴くだけに、メジャー契約する前の彼らの音楽を知りません。
よって真実は分かりませんが、初めて聴いた感想としては一言
「もっとリスナーを信用していいのではないか」
という、率直なものでした。
私の立場から昨晩のサウンドをザッと説明させていただくと、
一曲除いて、ドラムとベース、ストリングスなど全て打ち込みされたオケに、カフォンとアコースティックギターを重ね、その上に乗る形で歌が歌われています。
どの曲も、打ち込みのパターンが変わらないため、その上にのるギターも全てストローク、カフォンもビートが変わりません。
しかもカフォンに関しては、打ち込みのドラムがある程度リズムを打ち出しているので、やっていることが重なっています。音もほとんど聞こえないことから、正直いらないのでは…と思ってしまいました。
そんなサウンドの上にのる歌なので、当然言うまでもなく、歌も基本的にダイナミックスがないソウルフルな攻めのスタイルでした。
でも、さすがプロだけあり、ピッチも正確、発声に関しても、最低5年以上は訓練しないと出ない倍音と張り、声量が備わっていて技術的にトテモ上手かったです。
でも、そういった固定されたサウンドを聴くことで、売り出す側のリスナーを見下げた目線を感じるのも事実でした。
「どうせ大半のリスナーは歌しか聴いていない。だから歌だけ鮮明に前に出れば、後のサウンドはこの程度で十分でしょう」
といった、世間の人は
「歌しか聴いていない」
といった考えが、ヒシヒシと伝わる感じでした。
確かに、様々なリスナーがいて、歌しか理解できない人もいますが、売る側の知らないところで、純粋な音楽愛好家は山程いますし、いい大人でしたら、専門的なことはわからなくても
「伝わるものか、否か」
くらいは、的確に判断できると思います。
世間の人は「歌」しか聴いてないから、歌以外のパートはほぼ同じアレンジで作る安易な発想、正直気に入りませんでした。
作品は「ある一部分」がよければ「いい」わけではありません。
受け止める側が、頭の認識の部分で「一部」しか理解できていなくとも、心で受け止めている感動は「トータル」の出来から派生されたものです。
まず、全体が良いこと前提で、
そういった中で、受け止める側によっては「歌」が頭で理解出来る範囲かもしれないし、もっと明確に理解出来る人には「全体&細部」だったりする。
たとえ受け止め方が「一部」でも、「全体」でも、結局トータルで作品を見ていかなければ、「何度聴いても飽きない」曲は生まれません。
「何度聴いても飽きない曲」とは、時期がどう経とうとも、聴くたびに、感じるたびに「発見」をもたらしてくれるものです。
人間はそんなに馬鹿でないと思います。
少なくともTail’zを聴きに来てくださるお客様は皆、相当わかります。下手したら演奏者より耳が肥えているかもしれません。
私自身、「リスナーが一番の専門家」だと常に思っています。だからLIVEでの作品発表はとても真剣ですし、聞き手に全て見透かされている緊張感を感じます。
今私自身も、一般世間とされる社会空間に普通に生活している一人として、一般社会の方々がどういった苦しみと癒しを求めているか、昨晩のメジャー関係者よりちょこっとは分っているのかもしれないと、真剣に思いました。
「発見」のない楽曲・サウンドはいずれ忘れ去られますし、捨てられます。
こういった作品が多いから、日本の歌もの業界はじめとして、メジャーが盛り上がらないのかもしれません(→ここの部分に関しては、あくまで私個人的な一部の考えだと受けとってもらえたら幸いです)
ただ、昨晩のアーティストのようなサウンドほ方向性をアピールをしていかないと、音楽人として生きていけないのが当たり前だとしたら、私およびTail’zで求めている思考は、世間で通用しないのかもしれません。
「本質なんて二の次、三の次なんだろうか。。」
本当に深く考えます。
ジャンル関係なく、作品を作り発表する道をたどるものにとって、
「自分の信念にしたがって良質なものを追求する道を選ぶ」か、
「生活するために他人の志向に従う」
か、本当に深く考えていかなければならないと、思いました。
・・そんなことを感じながら帰り道
「もし、チャンスがあるならメジャー契約する前の、彼らの表現が観てみたいね」
そう、海老根くんと斉藤まりちゃんと話して帰りました。