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雛森は、印を結んだまま強ばっている指をほどくこともできないでいた。 縛道を崩し、日番谷が力で砕けるまでそれを薄くすることに集中力と霊力をぎりぎりまで高めていたのは確かだ。そのために砕けたときには全身の力が抜けて、雛森は糸の切れた人形のように座り込んだまま立ち上がれないでいる。 しかしそれ以上に、目の前の展開に意識を奪われていた。 光の檻を中から破壊する直前に見えた、“藍染隊長”と乱菊の間に滑り込んだ白い姿。次々と繰り出された斬撃が一段落ついた今、ここからでも分かるほどに息を切らしている白い影は市丸の姿をしていた。 どうして。 雛森は混乱する。光の檻の残骸が煌めきながら消えていく向こうで、硬い横顔で市丸が前を、“藍染隊長”を見据えている。そして唇を小さく動かした。声は聞こえない。しかし、応えるように唇を動かす乱菊の、呆然、といった表情が雪が溶けるように崩れた。雛森は息を呑む。 こんな顔をするんだ。 こんな顔をさせるんだ。 乱菊がふらつきながらも立ち上がる。滑らかな顎を伝った赤い血が、ぱたぱたと屋根に落ちた。乱菊は顔をしかめる。そして。
いきなり市丸を拳で殴った。
「こんの、大馬鹿野郎っ!」 今度は聞こえた。 それはそうだ。乱菊は怒鳴っている。血を流したせいで白かった顔をわずかに紅潮させてまで怒鳴っている。 「あんたどこまで馬鹿なのよ! 昔っからホント馬鹿! 怪我ぁ? そんなもんより他にあるでしょうが言うことが!」 市丸は殴られた後頭部を押さえて軽く前かがみになっている。声は聞こえないが何か言ったらしく、乱菊の頬に更に赤みが増す。 「なら全部言いなさいよ! 謝ることも話すことも全て残さず余さずきれいさっぱり! あたし言ったじゃない! 全部、半分にするって、言ったでしょうが馬鹿野郎!」 雛森は呆気にとられていた。しかし、すぐに気付いて目を細める。目頭が熱くて、そうでもしないと我慢できない。 乱菊は、ほとんど泣いていた。 蒼い目は濡れて光っている。声は震えている。涙が零れるのを堪えているのか。笑みが零れるのを堪えているのか。そして怒りを堪えているのか。乱菊はかなり複雑な、しかし、とても綺麗な顔をしていた。薄い膜が剥がれたような、普段と同じはずなのに初めて見る顔だった。 市丸もまた、見たこともない横顔だった。ほんの僅か綻ばせた口元は柔らかで、消えそうで、雛森は戸惑う。見慣れた、薄い笑みではなかった。そこには温度があった。そこに作り物の嘘はなかった。
しかし市丸は乱菊を振り返らない。一瞬も“藍染隊長”から目を離さない。離せないのだろう。雛森も“藍染隊長”を視界から外すことはできない。乱菊も同じなのか、体が、決して弛まない。 雛森は木でできているような指を無理矢理にほどいた。急に血が通い、熱を帯びるのを感じる。膝の震えを堪えて立ち上がる。斬魄刀を抜くと、重みが雛森を落ち着かせた。そう、この光景が現実だ。雛森は思う。真実は知らない。事実すら全てを知りえない。ただ、目の前で“藍染隊長”は自分達に殺意にすらならない酷薄な意志を向け、乱菊は血を流し、そこに市丸が割って入った。乱菊を庇い、“藍染隊長”に刀を向けて。 人の想いは知らない。望みも知らない。言葉にされてもその本当の形は決して知りえない。だからそこにあることを信じるしかない。雛森は前を向く。刀を構え、呟く。 「……藍染、隊、長」 今、雛森にあるのは、この残酷で、どこか体の奥底で気付いていた現実だった。無意識に刀をとり、縛道に捕まる直前に反射的に鬼道を放った自分だった。
市丸が何かを囁くのが見えた。乱菊が、ふっ、と一瞬だけ笑う。そして体勢を整えた。ふらつきが消え、乱菊が刀を構える。 斜め前にいる京楽の表情は雛森には伺えなかった。彼独特の二刀流の構えのまま、京楽は動かない。しかし彼の霊圧が柔らかに揺れて、雛森は京楽が微笑んでいるのだろうと思う。日番谷の背中は微動だにしていないが、雛森には分かっていた。 そして懐かしくも遠い過去に似た人は、微笑んでいる。優しく、無慈悲に微笑んでいる。 「さて、そろそろ、私に説明をしてくれるかな」 その人が重々しく、新たな戦いの始まりを告げる。雛森は息を吸うと、強く柄を握り締めた。
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