殺そうか。
それとも、捕えて殺せと渡してみようか。
藍染は松本乱菊を見下ろしてそんなことを考えた。それで効果はあるだろうか。あの男を完全な虚無に突き落とすのか。
「いや、消去法なんだよ。松本君、君しか残らなかったんだ」
目の前で松本が首を傾げてみせる。傾ける角度も、微かに浮かぶ曖昧な笑みも、完璧だと藍染は思う。
美しく咲き誇る花。
覆い隠す嘘があるゆえに。
「彼に出会った頃から考えていたんだよ。何かあるのかな、とね。諦めに潜む渇望。達観を装った執着。私は持たない何かを、ギンは持っている……いや、手放せない、と言うべきかな」
言葉にしながら、藍染は細めた眼で松本を観察する。予想していた通り、彼女は訝しげに眉を寄せただけだった。藍染は口元を綻ばせた。少しは暇潰しになるだろう。ほんの少し。ゆっくりと息をする間くらいは。
「……何を求めているのか。求めるなどという強いものではないかもしれない。幻のような願いかもしれない。しかし要するに、他者への何らかの期待と言っていい」
そして他者とは何も人とは限らない、人を含む、世界だ。世界そのものだ。
藍染はその部分だけ囁くように言った。
眼下の松本はじっと、時が止まったかのように動かなかった。微かにそよいでいた風も止み、松本の山吹色の髪もただ背中に流れている。その向こうにいる雛森も身じろぎもせずに、固まっているようだった。
「彼のその様子も、いつか変わるだろうと考えていたよ。この世界に何を期待できるだろう。爛熟し、腐りかけたこの世界に……しかし、彼からその気配は消えなかった。親しかったらしい学友の度重なる消滅にも、職場で周囲から与えられた品のない嫉みや嫌悪にも、死神や虚へ行なったおぞましい数々の実験にも。彼を絶望からぎりぎりのところで回避させているものは何だろうね」
一息ついて藍染は首を振った。松本は微動だにしない。瞬きすらしていないような蒼い目をこちらに向けていた。
「……ギンが何に、何を期待しているのか。それをいつ諦めるのか。長いこと私は観察していたよ。出会った頃からずっと……しかし、見えなかった。私には見えないものなのかもしれない」
藍染は顔を上げて空を仰ぐ。高く澄み渡った空は無残にひび割れ、虚無への穴を覗かせている。
暗い、底のない穴。
ふと自嘲の笑みが浮かび、藍染はそれを苦笑に変える。その空虚の理由を知ろうとしたこともあった。何かを求めたことはあった。
「しかし、見えなくとも推測することくらいはできる。ここを出ていくときに彼が多少……微々たるものだがね、執着していたらしい者が死ぬように立ち回れと命じてみた。実際に殺せとも言った」
風が吹いた。
「彼は、やってみせたよ」
山吹色の髪が揺れた。周囲に光が零れる。
「結果的に誰も死ななかったのは、彼の意図なのかどうかは別にしてね。とりあえず実行してみせた点を私は評価した。しかし、ここを去っても相変わらずだ。そこで再度考えたよ。見落としはないかとね。そこでようやく思い当たったよ……松本君」
藍染は瞬歩で松本の前に降り立った。松本は驚く様子もなく、雛森を隠すように体の位置をずらしただけだった。笑みは消え、藍染をきつい眼差しで見上げている。藍染は微笑んだ。
「彼との距離を変えることなく常にあったのは、君だけだった」
黙ると、沈黙が漂った。それがじわりと重くなった。
松本が目を伏せた。
「あたしは、知らないわ」
その声は低く静かに響いた。
「何も知らないのよ。本当に、何も」
その響きに揺れはなかった。つまらないな。藍染は小さく呟いた。
仕方ない。殺しておこうか。藍染にとっては、すでにどうでもよいことだった。