これが私の最高傑作「シジュウカラのヒナ」の瞬間映像だ。デジカメで撮ったのはもう10年以上も前になるかな。5羽しか写ってないけど実は9羽もいて、4月末に生まれたらしく5月なかばには巣立っていった。
ゴールデンウイークのある日、裏庭に行ったら使ってない裏返しの植木鉢の中からヒナのさえずりが聞こえるよ。離れてそっと見ていると親鳥がときどき帰ってきては底の小さな穴から入っていく。エサを探しに出て行っている一瞬の間に空けてみたら、ほらこの通り。絹糸のような真っ白な巣はどうやってつくったの?クチバシの下に大きな目玉が見える・・?
2年生NIさんは前回「助動詞」の上級編を勉強した。どれも難しくて,半分も丸がつかなかったね。25問中6問が「助動詞+完了形」の問題だった。1,未来完了will have finished (きっと終えてしまっているだろう)2,昔の仮定法 would have finished (本当なら終えてしまっているだろうに)3,昔の推量 must have finished (終えてしまったにちがいない)4,昔の非難 should have finished (終えてしまうべきだったのに)のように「チャート式」に自分でまとめておくといい。2語や3語で助動詞になるものも重要だ。had better、would rather、ought to、used to、may wellや may as wellなど。
今日は文頭において全文を修飾する To my surprise,・・(私が驚いたことに、・・)の表現を勉強して「東海大」の英文を和訳した。To my regret, a pure love of acquiring knowledge seems to be diminishing among students throughout the world. 「残念なことに、知識を得る事を純粋に愛する気持ちがだんだん世界中の若者たちの間で薄れていくように思われるのだ」。ここではloveが名詞だけど動詞にもどして「〜を愛する気持ち」と訳せば「名詞構文」をSVOMの文型に当てはめることでわかりやすい訳になる。
1年生YO君も前回、会話文での「助動詞」をやった。こちらは基礎編でほぼ理解できていたね。Can such a cheap ring be gold?(そんな安い指輪が本当に金なの?)でのcanは疑問文で「いったいそんなことがありうるだろうか」の意味だからIs it possible?と言い換えられる。反対に、「ありえない、〜のはずがない、〜であるわけがない」ならcannotということは知っていたね。It is impossible・・と言える。
こんな風に「助動詞」とは「文全体に話者の判断をつけくわえるもの」なんだよ。単に「動詞を助けている(??)」のではない。だから疑問文では文の先頭に置くのだ。それ以外では主語(S)が先に出たがるだけ。「主語はよく文のテーマになるからね。」
この上の「・・・」の日本語で一番大切なものはどの部分?そう、最後の「ね」だ。話者(私)が読者(君たち)に「承認してほしい」という気持ちの表れだ。日本語では文の最後に一番大切なものが登場する。英語なら ,isn't itとかRight? You see? と付け加えるところ。これが「助動詞」となって文頭に組み込まれているのです。
中学生のNI君は前回「包装紙と環境問題」を和訳してみた。「受身形」の動詞は正しく訳せていたね。I see small thing like pens in a nice bag. で動詞 see はSVOC(第5文型)に使うから注意しよう。OとCも「主語+述語」の関係になっているのだ。「OがCであるのを私は見る」ということ。「ペンのような小さなものが立派な袋に入っているのを見る。」という意味になるよ。今日は「分詞」と「関係詞」を勉強して、英文「韓国のキムチ」を全訳してみた。 尾上
(追記)昨日は久々に見たロシア映画「ガガーリン」(2013)の感想を書いたけど、学生時代はロシア語が専攻であったからソ連映画をよく見たなあ。池袋の「文芸座」、飯田橋の「人生座」、新宿の「武蔵野館」、有楽町のATG(アート・シアター・ギルド)などへ出かけた。短編映画はよく六本木の狸穴にある「ソ連大使館」の映写会に招かれて見た。「私はモスクワを歩く」(1963)という軽快な歌の流れるモダーンなのもあったな。
私が大学在学中の63年から67年の間に輸入・上映された映画はタルコフスキー監督の「僕の村は戦場だった」(1962)を筆頭に、トルストイ原作をボンダルチュク監督が映画化した大作「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」も1967年の制作で、日本で公開された時にはほとんど見に行ったよ。
それまではすべて白黒映画だったのに、戦後まもない「石の花」(1946)と「シベリア物語」(1947)はソ連のカラー映画初登場で日本より10年も早いがアメリカより10年遅れている。マルシャークの童話をアニメで映画化した「森は生きている」(1956)もカラーの傑作だったよ。
アメリカでは1935年にはすでにカラー映画が始まっていて、ディズニーがアニメ「白雪姫」(1937)をカラーで制作している。私が生まれて初めて見た映画がこれだ。小学校1年生の時、澁谷駅前の大きな映画館だった。今の「109」ビルの向かいにあった「澁谷東宝」だと思う。今も「TOHOシネマズ澁谷」で続いている。
1950年頃、ランドセルを背負って通学の途中通った澁谷駅前も「道玄坂」もまだ戦後の焼け野が原だったのに映画館の復興は早かった。このカラー映画を見た大人たちは戦勝国のアメリカの技術・財力・国力に度肝を抜かれたという。「こんなスゴイ映画を戦争中に作っていたのか!勝てないわけだ・・」と。1939年制作の大作「風と共に去りぬ」もカラーだったなあ。クラーク・ゲーブルとビビアン・リーが眩しかったなあ。(つづく)
