昨日はこのブログにアクセス出来なかったね。東京のAlfooというプロバイダーが一日、システムの点検か修理をしていたようだ。こんなことが時折あるね。・・・早稲田・慶応も終わり国立前期も入試が終わって、受験生はほっと一息の時期かな。来週はいよいよ「卒業式」だけど浮かれてはいられない。2週間後に後期試験が控えているから、油断せずに勉強を続けるべきだ。さらに、大学の授業が始まるまでの1ヶ月余りをどう過ごすか、も大事なこと。
YU君は前回、慶応大学・医学部の自由作文に挑戦した。「自分の意見を70語で書け」は苦労したね。3つか4つの文で平易な書き方で良かったが、「医者なんかいなくても自分で気をつければ健康を維持できる。」と書いては君が医者を目指すなら不適切な意見だね。本文につられて何でも賛成ではいけない。常に「批判的に読め」ということ。今日は東大の「地球温暖化」を示すグラフについての意見を書かせる問題だった。「温暖化」を鵜呑みにしてはいけない。何事も「批判的に読め」が鉄則だ。この種の問題をもうすこし練習しよう。
TA君は英作文をやってみた。「言われたことは、しなければなりません。」日本語に表れない「主語」を決めるには、発話のシチュエーションをイメージすること。一般的には「相手に伝える」内容だから I よりも You がいいね。そして一般論と考えればすべて現在形でよいから、You must do what you are told to do. 残りのプリントを宿題にするので、家でやって次回提出すること。
KI君は今日期末テストが終わり、卒業式やら高校入試やらで学校が休みになって部活もない。日頃やり残した和訳と英訳のプリントがたくさんあるから是非このチャンスに片付けて欲しい。今日は「名詞構文」を勉強した。ここはとても大切な項目で、今後の英文理解にたびたび登場するはず。前回は「同志社大」の和訳が難しかった。カンマカンマはカッコだから省略すると、 Some have very obvious meanings; others do not appear to mean anything at all, and are accepted simply as names.ここで Someと othersは共に surnames(姓)の省略で よく見るpeopleではない。セミコロンは前文と後文を対比させているから「一方」と訳しておこう。 andは動詞のare acceptedと前文の動詞do not appearを並列していると見ること。ちなみにappear to〜は「〜のように見える、〜らしい」の意味で、既知のseem to〜と同じこと。It seems that〜はIt appears that〜ともいうよ。
SUさんが一番最初に登場した。今日のTOEFLの問題「雌の孔雀は雄のどこに惹かれるのか」を読んだ。「それじゃ人間の女も男をどこで選ぶの?」の研究もあって、一つの答えは「アゴの線」だそうだ。つまり「肉食系」かな?男性諸君!アゴを鍛えようぜ!英国BBCの切り抜き「どれくらい寝ないでいられるか」と、「休日になると病気になるのはなぜ?」も用意したので読んでください。私が昔、定期購読していた週刊誌「ニューヨーカー」も一冊あげた。現代の人気作家のエッセイや短編小説がたくさんちりばめられた、私の好きな雑誌です。ここにはプリンストン大学の講師もやった村上春樹がよく投稿していたし、大江健三郎も得意の英文で長男誕生の時のつらい話を書いているよ。 尾上
(追記)先週の土曜日、言語学の講演が始まるまで時間があったので、懐かしい「新宿御苑」に散歩に行ってみた。外人のカップルが仲良くジョギングする姿を見ると大都会NYの中のオアシス、セントラルパークに似た雰囲気だ。ロウバイはもう枯れかけて、お茶室「楽羽亭」の前庭に紅梅白梅が見頃になっていた。お花畑一面にキラキラ黄金色に輝くのは満開のフクジュソウ。池にはオシドリが仲良く泳ぎ、湖面に映る高層ビルは代々木のNTTドコモ。尖塔形のごつい感じがNYマンハッタンの摩天楼を思い出させる。
芝生の広場をみおろす丘の上に出てみると幟をたてた茶店が一軒。さくらの花びらをあしらったピンクのハンカチをおみやげに買った。「會津」の工芸で「鶴ケ城の桜は会津の人々のあきらめない精神が・・」と記してある。会津は家内の郷里だからきっと喜ぶだろう。おおぜいの人がカメラを向ける先は一本の巨大な「カンザクラ」だった。まだ三分咲きだけど、太い脇枝を四方に広げている見事な枝振りに感動!
芝生の先の池の畔に中国の歴史遺産のような屋根が反り返った赤瓦の建物が見えるよ。ここは明治・大正の皇室のお庭だった時代、「御涼亭」という名の休憩所だったらしい。なんか見覚えがあるなあ。そうか、ここで遠足の写真を撮ったんだな。3年で転校する前の最初の渋谷区立常磐松小学校のとき、1年生の遠足で来たときの写真が残っているはず。
家に帰って、もう背表紙も破れた小さな赤いアルバムを見つけ出して開いてみた。「旧御涼亭」を背景に1クラス61名(すごい人数!)の生徒が芝生の上で2列に並んでいる。多すぎて顔が半分の子もいる。後には担任の「大木先生」と3人の付き添いの先生たち。幼子を抱っこしているお母さん方や着物姿のおばあちゃんも一緒に。
昭和20年5月の「東京大空襲」で焼け残った建物はこの「御涼亭」ともう一つの「御休所」だけだったそうだ。内藤町と呼ばれる新宿のこのあたりには私たちの家もあった。裏側の「千駄ヶ谷」門に近かったが1歳半の頃、つまり焼失の直前、御苑の中をよちよち歩く写真も父が3枚残している。当時は長泉村本宿の母の実家に一家で疎開していたけど、時々はここに戻ってきたらしい。このあたりを「内藤新宿」とよぶ由来は?
「新宿御苑」の歴史をひもとくと400年前、家康が江戸開府の折に譜代の家臣「内藤清成」に与えた広大な屋敷の跡だったのだ。江戸城の「半蔵門」から四谷を通ってきて甲府に向かった五街道のひとつ「甲州街道」がここで左折した。だからここを昔「新宿追分」と呼んで街道最初の宿場として賑わっていたそうだ。昔からの「高井戸の宿」の手前に出来たから「新しい宿場」で「新宿」となった。
「追分」とは「牛馬を追って分けたところ」の意味で、そのまま直進すると「青梅街道」で、「淀橋」を渡って私たちが4年住んだ高円寺を通って青梅から大菩薩峠を越えて甲府に向かう。甲州街道より近いので「裏街道」として栄えたらしい。足利時代の下野から鎌倉に向かう「鎌倉街道」も交差していたのでここは江戸城防衛の要であった。
内藤家の広大な所有地は維新後、明治政府の国有地になってから西洋式の農業や園芸の試験所として活用され、東大農学部の前身もここに置かれたらしい。(後に駒場に移る。今でも駒場の駅の近くに田んぼがあるよ。)終戦後に「国民公園」にかわるまで明治の末期から40年ほど皇室の庭園だったから今でも「御苑」と呼んでいる。近いうちに再訪して西洋式の「大温室」や「洋館御休所」、フランス式の「バラ園」もゆっくり見てみたい。









