「東京タワーのサクラ」
またまた高校の同窓会で東京に出た。兵庫県西宮市のわが母校「甲陽学院」は中高一貫の私立男子校で、1学年180人のクラス替えが高校入学時の一度しかなかった。大学や就職で関東に転居した級友の東京支部の集まりでそのためか実にみんな仲がいい。昨年末は御殿場「時之栖」で、今年1月には六本木「住友会館」で新年会をやったばかりで今回は芝公園での「花見昼食会」だった。あいにくの雨模様で地下鉄「大江戸線」の赤羽橋を出ると傘をさして「芝公園」の中を歩いた。真っ赤な「東京タワー」を見上げながら、前日満開になったというソメイヨシノのトンネルを抜けて会場のレストランに向かった。ここは広大な「増上寺」の墓地のあった裏庭に当たり、タワー下の「弁天池」や「もみじ谷」はもう初夏のような緑濃い景色で、豆腐料理の高級料亭「うかい」の赤壁に満開のサクラが映えていた。お互いの健康を祝して分厚いビフテキとビールで乾杯!
「東京タワー」が完成したのは昭和33年(1958年)12月で私は15才、兵庫県宝塚中学の3年生で修学旅行で東京に来たけれど、まだ建設中で見学には寄らなかった。友人にLINEメールで聞いたら、大学同窓のM君も6年一貫の「芝学園」の中3で、校舎の真上に完成した「東京タワー」を見てオープニングの日に展望台まで外の非常階段を友人と駆け上がったよ、と思い出を語ってくれた。「東京タワー」は公募した愛称で、正式名称「日本電波塔」の創始者は「新聞王」と言われた前田久吉。「産経新聞」と「フジテレビ」を興した人物で、フジテレビが今の「お台場」に移るまでの40年間、地上333mのタワー先端から東京の広範囲にテレビ電波を送った。やがて東京のすべてのテレビ局がこのタワーから電波を送ることになった。私が昭和43年に東伊豆の「稲取高校」に赴任したときは東京のテレビがほとんど受信できたよ・・・
先日のLINEグループ「英字新聞の会」には、ジャパンタイムズ紙の3月末の記事からTraveling the Three-Star Road, the tourist route made from thin air (知名度の低い場所から始まる旅のルート、三ツ星の道を行く)を転送した。thin airは「薄い空気」じゃなくてsomewhere unknown (名もなき所)の意味がある。「三ツ星」とはレストランの格付けで有名な「ミシュランガイド」の判定で、フランスのタイヤ会社「ミシュラン」がドライバーたちの旅の安全や楽しみ方を提供する冊子で今や世界規模になった。日本では東京や京都のほか御殿場にも「三ツ星」シェフのフレンチレストランができた。東山の「とらや工房」向いの「メゾン・ケイ」だ。ミシュランガイドには「旅行先やそのルート」にも格付けがあって、日本では登山者の多い「富士山」と「高尾山」が三ツ星をもらっている。
この新聞では「東京・京都・大阪」のゴールデンルートもいいけれど田舎に行くのもいい、と言ってA few days hoofing it along the Nakasendo Trail will scratch that itch. (中山道を数日自分で歩けば満足できるよ)。hoof itは「ひづめで蹴る」から「自分の足で歩く」の意味だし、scratch itchは「かゆいところに手が届く」から「満足する」の比喩的な意味で、こんなイディオムがたくさん使ってあるから面白い。この記者は長野県松本市の「松本城」から石川県金沢市の「兼六園」まで「ミシュラン三ツ星」のルート、名称「昇龍道」を旅するのだが、まず「松本城」では武器・鉄砲の展示を見て、「当時松本城に依拠していた武田軍は1575年長篠の戦で、大規模に鉄砲を用いた織田信長と徳川家康に負けた」と書いた。(3月23日のブログ「長篠城跡」を参照。) 尾上
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