その心地のいい音を、ゾロは久しぶりに聞いた。実家を出てからは耳にする機会のなかった音だ。
トントントントントン。リズミカルで軽い音色。
朝を呼んでくるのに、同時に眠くもなってしまうような、やさしい音だ。
目を閉じたままでも、ゾロの頭の覚醒は早い。その音を奏でているのが、金髪の元部下であることを、音が聞こえ始めてすぐに認識していた。昨晩、雨のせいで終電を逃し、おまけに目の前で倒れたので背負って連れてきた。大方、気を遣って朝食でも作っているのだろう。そんなこと別にいいのだが、ゾロだって平社員の頃は、部長といえば『かなりエライ人』だと思っていた。ゾロは迷惑とも思っていないが、それでも普通は気にするものだろう。朝食を作るぐらいで気が済むなら、やらせておけばいい。
ふわふわといい匂いがしてきたところで、ゾロはようやく目を開けた。
「早いな」
「あっ、ロロノア部長! おはようございます。昨日の晩はご迷惑をおかけしました」
寝間着代わりに貸してやったTシャツと短パンではなく、自分の服に戻っている。さすがにスーツのジャケットは脱いでいるが。
「そんな格好で、料理してるのか」
「買い物に出たので。お借りした服、ありがとうございました」
脱いだゾロの服はきれいに畳んである。そういうのは仕事ぶりに出るものだ。この元部下は、じっくり丁寧というわけではなく、わりと手早く済ませるクセに、ソツなくきれいな資料を作ってきたりしていた。
「勝手にキッチン使って、すみません」
「かまわねェ。お前、料理できるんだな」
「一人暮らしなので、一応は。お口に合うかわかりませんが」
同じ一人暮らしでも、ゾロは料理をしない。当然ながら冷蔵庫には大したものが入っておらず、この時間にはスーパーは開いていないから近くのコンビニで買い物をしたのだろう。それで作ったにしては、立派な朝食ができていた。つやつやの目玉焼きとベーコン、カラフルなサイコロの野菜が入ったスープ、たっぷりのサラダ。食パンは、半分がこんがり絶妙な色のトーストで、半分にはチーズを乗せて焼いてある。一応というレベルには、見えない。
「うまそうだ。食おう」
「はい!」
嬉しそうに笑う顔が、窓から射しこむ朝日に照らされて、キラキラ輝く。ゾロは思わず目をそらして、ごまかすように座った。今はこたつ布団は掛けていないが、洋食に似合わないこたつテーブルだ。
欠員が出たので一人こっちの部署に欲しい。エースにそう言われたとき、すぐにこの男にしようと決めた。まだ新人だが優秀だと言うと、エースはすぐに頷いた。本人に打診をしたら驚いて、ちょっと寂しそうにも見えたが、これでいいのだと思った。このまま近くにいたら、ゾロはこの男に邪な気持ちを抱きそうだったのだ。
見た目どおりに、朝食はうまかった。
「すげェな。お前、いい嫁さんになれるな」
うっかり、そんなことを言ってしまった。女子社員に言ったらセクハラだと言われるかもしれないが、男だったらどうだろう。やっぱり怒られそうだ。
ゾロは男の出方を窺ったが、予想に反して男はちょっと困ったように「何言ってんですか」と笑っただけだった。
「ロロノア部長、結婚は一度もされてないんですか」
「あー。この年だと一回ぐらいしてねェと、ヘンか?」
「そんなことないですよ! え、彼女さんは?」
「いねェな……。どれぐらいだ。20年ぐらいか?」
「に、にじゅうねん!?」
ゾロとこの男が干支で一回り半ぐらい違う、彼女がいたのは学生の頃だから元部下より若いはずで、だからそんなものだろう。
「学生のとき、何人かと付き合ってみたんだけどな。めんどくせェだろ、どれも長く続かなかったな」
「めんどくせェ、かー」
――ロロノア部長かっこいいのにもったいない。
小さく呟く声が、はっきりとゾロの耳に届く。
「なァ」
もったいない、と、ゾロもさっきから思っていた。頭は起きていたのに、半分眠っていたことをだ。この男が自分の部屋のキッチンで料理をする姿を、目を覚まして見ていればよかったと。
次の機会にはじっくり見てやろうと思って、次の機会っていつだ? と考えた。
「すげェうまかった。また朝メシ作ってくれよ」
元部下はきょとんと目を丸くした。会社では見たことのない、幼い顔だ。
「朝……? 朝から作りにきていいんですか? 昼の弁当とかならいくらでも」
「ああ、弁当もいいな。朝から来なくても、また泊まっていきゃあいいじゃねェか」
「え? いや、その……。晩飯! そう、晩飯は? 張り切って豪華なの作りますよ」
「それもいいな。いっそお前、ここに住めよ。朝も昼も夜も、全部作ってくれたら、」
そこまで言って、ゾロはしまったと思った。調子に乗って、言い過ぎた。普段なら口がすべるなんて絶対ないのに、思っていることが全部そのまま口に出てしまった。
さすがに引いただろうなと恐る恐る男の顔を見て、ゾロは絶句した。
朝日はさっきより少しやわらかな光になっている。それが男をやさしく包んで、天使か女神みたいに清らかに見せていた。男はゾロの言葉に白い肌を真っ赤にしている。
しまった、ともう一度ゾロは思った。閉じ込めていたはずの気持ちが、どくんと胸の中にあふれる。手に入れたくなってしまった。この男の全部を。
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ロロノア部長にセクハラっぽいこと言われたい(なんだと)